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《第4水門跡》


《東門跡》





ここから見える景色もまた良い感じ。
カメラを左から右に。


門の場所から見たところ。

《鍛治工房跡》
草木が生い茂り案内板を見ても何が何だか…





《第5水門跡》








上の案内板の写真と比べて撮ってはみたが…
ここも草木が生い茂っていてもうワケがわかんない。
一体どこに何があるのやら…



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鬼ノ城を旅の当日にアップした写真はこちら。
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鬼ノ城
詳細についてはこちらのリンクからどうぞ。
http://www.city.soja.okayama.jp/kanko_project/kanko/kannkou_bunnka/kankouti/kinojyo/kinojo.html
「西門跡」からスタートします。
ここから見る景色は辺り一面を見渡せて凄いです。


《西門の復元》

----------------------------
西門跡は、きわめて良好な状態で残っていました。
12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も
正確に知ることができ、また通路床面の石敷や石段、敷石も
よく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ること
ができました。
そこでこれらの資料をもとに、関連資料を参考にし、
戦闘の場としての機能を考慮して三階建ての城門に復元して
います。一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は見張り
や戦闘の場としての機能をもつものです。屋根は調査時にも
瓦は出土していないので、板葺きにしています。
古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。
------------------(鬼ノ城案内板より)

《西門跡》

----------------------------
鬼ノ城は、四カ所に城門を設けています。
いずれも掘立柱の城門で、通路前面に2m近い段差を持つ
(懸門)ことを特徴としています。
西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間(12.3m)、
中央1間を通路とし、2間の奥行をもち、12本の柱で上屋を
支えます。柱は一辺最大60cmの角柱を2mほども埋め込んで
います。
本柱に合わせたくり込み、方立柱穴、軸摺穴、蹴放しが
一体的に加工された門礎をもつのは、鬼ノ城のもののみです。
西門は日本最大の古代山城大野城の太宰府口城門(間口
8.85m)をしのぐ壮大堅固な城門です。
------------------(鬼ノ城案内板より)

《敷石》


----------------------------
鬼ノ城では、城壁の下の面に接して板石を多数敷き詰めて
います。幅は基本的に1.5m幅で、場内側の広い所では5m幅
にもなる所もあります。
敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は約千トンにも
なります。この石畳のような敷石は、通路としての役わりも
あるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が
城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。
敷石は、日本最古の古代山城では鬼ノ城にしかなく、
朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。
とくにこの区間の敷石は、鬼ノ城でも見事なところです。
------------------(鬼ノ城案内板より)
詳細不明。一応撮影。

《第1水門》


《第2水門》




所々にあるコレは何だったんだろう?
説明がなかったのでよくわからなかった。

《南門跡》
もう説明文を書き写すのが面倒なので画像で。






南門跡にて歩いてきた道を振り返る。

もう少し先の場所にあったもの。


「高石垣」から向こうに小さく見える高石垣。
ここから覗き込むのはちと怖い。第4水門の手前にあります。

巨石に仏様が彫られ、祀られていました。


★その3に続く!
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『鬼ノ城』に向かいます。
その手前に「鬼の釜」と呼ばれる大きな釜が置かれていて、
温羅が生け贄をこの大釜で茹でていたという伝説がありますが
説明を読む限り正しい謂れというか、こうだ!というハッキリ
した詳細は不明のようです。口径役185cm、深さ105cm。


----------------------------
http://www.city.soja.okayama.jp/bunka/kanko/shitei_bunkazai/si/si_10.html
鬼ノ城に住んでいた温羅という伝説の鬼が使用していたとされ、
「鬼の釜」という名で呼ばれています。鋳型で作られた大釜で、
上・中・下三段の横方向と、各段10片の縦方向の鋳造痕が明瞭
に認められます。
この釜は、現在新山集落の一画にあります。
「湯釜谷という所にあったものを、享保7(1722)年10月に
地元の人が現在の場所に運び、その時底が壊れた」、
また「釜はもともと二つあり、新山寺の僧がその一つを阿曽村
の鋳物師に与えた残りである」、「阿曽村の鋳物師が持ち帰り、
一つを壊すとたたりがあったので、残る一つを新山へ返した」
などの伝承がありますが、定かではありません。
この地は山岳仏教の聖地で、新山別所の浄土堂を修理し、
阿弥陀仏を安置した鎌倉時代の僧:重源が、山口県の阿弥陀寺
で湯釜を寄進したとされていることから、新山でも人々のため
に湯屋をつくり、湯釜もつくったのではないかと考えられます。
---------------(リンク先:総社観光ナビ)
鬼ノ城を遠くから眺められる場所があったので撮影。
鬼ノ城は吉備津彦と温羅の物語の中では鬼と呼ばれた温羅が
ここに住んでいたとされています。山の高さは標高約400m。
山容は擂鉢を伏せたような形状。山頂付近はなだらかな斜面
となっていますが、8〜9合目以下は著しく傾斜している。
築かれた城壁は全周約2.8km。城内はおよそ30ヘクタール。
カメラを鬼ノ城から右の方に向けてみましょう。




でっかい岩があった。

案内板によれば築城の時期については諸説あり。
大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦
(663年)において失敗した後、唐、新羅連合軍の日本侵攻を
恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられており、
古代山城は北九州北部から瀬戸内海、近畿にいたる地域に築城
されているそう。この鬼ノ城は対岸の屋嶋城とともに、
瀬戸内の重要拠点として考えられていたそうです。
さあ、鬼ノ城に着きましたよ。
鬼退治しちゃう?

★その2に続くよ!(2以降は少し長くなるかも)
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岡崎城遠景。

「徳川家康公銅像」。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/16

-----------------------------
天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎城公園内二の丸
(現在の能楽堂)で生まれた。幼少の頃人質として苦難の道を
歩き、自立した後は天下統一をめざし、転戦を続け、
慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、
天下をおさめるにいたった。以後持前の才能を生かし、全国統一
の念願をかなえるとともに、徳川幕府300年の基盤をも作り、
元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
この像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。
------------------(岡崎公園 案内板より)
「松平元康像」。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/17


-----------------------------
この元康像は1992年に開催された、「家康公生誕450年祭」
の一環として、450年祭実行委員会が市内外から寄付を募って
設置し、岡崎市へ寄贈したものです。若き元康(徳川家康)の
騎馬像は城を背にし、大権現として再生する日光東照宮の方角
を向いています。
背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢
が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を表しています。
------------------(岡崎公園 案内板より)
訪れたこの時期は、梅が綺麗に咲いていました。


再び、岡崎城を遠くから撮影してみる。

小さくてわからないと思いますが、石垣の下に鴨が整列。

お城に到着ー。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/2
中は資料館的な感じになっていて、城という城ではなく、
特に惹かれるものも無さそうなので見学していません。



-----------------------------
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が
現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父で
ある松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。
1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生
した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、
本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、
本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。
石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主になることを誇り
としたと伝えられる。
現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復興され、3層5階の
鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の
岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野
を一望することができる。
------------------(岡崎公園 案内板より)
「東照公遺訓碑」。


-----------------------------
この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)
出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、
相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所
会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和十八年三月
九十八歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、
これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田
顕正氏の相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て
建立に到った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、
碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所
長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和十一年四月十六日建立とのみ刻み、
寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、
遺訓碑が建立されて五十年、また、岡崎市制七十周年の記念
すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の
由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。
------------------(岡崎公園 案内板より)
★岡崎城横、龍城神社の記事に続く!
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★公園内にいた猫さんの記事はこちら。
→ http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2204.html
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初めて行ったよ!岡崎公園。
ってなワケで記事の最初にまず言っておこう。
岡崎城内へは入ってません。周りをウロウロ探訪しただけです。
(あ、お城の写真は撮りましたからね)

-----------------------------
この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として、
1993年に再建しました。(高さ11m、幅16.4m、奥行6.3m)
石垣には地元産の御影石を使用し、入母屋造りの屋根には
江戸物本瓦が葺かれています。
本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200m)
にありました。江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間、
梁行二間四尺」でした。
----------------(岡崎公園 公式サイトより)
「本多平八郎忠勝公の像」。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/18
言わずと知れた徳川四天王のひとり。

続いて「家康しかみ像」。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/19
有名な肖像画を立体化させたものです。ただし、あのしかみ像は
実は家康の肖像画ではないという話を聞いた事があるのですが…
はてさて真実はいかに。

-----------------------------
世に云うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、
浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いをいどみ、負け戦と
なって多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのない
ように描かせたものと伝えられています。顔をしかめて苦渋の
表情をあらわした珍しい肖像画です。
「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、
世界に冠たる平和国家を作り上げる礎になったと云われます。
このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。
----------------(岡崎公園 公式サイトより)

三河武士のやかた 家康館
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/3
の前に来たらグレート家康公「葵」武将隊の人がいた。
公式サイト/https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/aoibushoutai/top
公式ブログ/https://ameblo.jp/aoibushoutai/
公式Twitter/https://twitter.com/aoibushoutai
おぉー、きっと観光の一環でやってる活動なんだな?
というワケで写真を撮らせていただきました。
武将隊のリーフレットをいただき、初めて知った人たち。
で、この武将(役)は「榊原康政」という徳川四天王のひとり。
……ゴメン合ってる?

歴史人物になりきって話しかけてくださる役者さん。
康政:「どこから来たのだ?」
SERUNA・旦那:「あっ、静岡です」
康政:「おぉ、静岡か。静岡も家康公ゆかりの場所であるな」
…こんなやりとりがあって楽しかったw
他の武将さんもいたので写真が撮りたかったのですけれど、
なにやらちょっとアレ系の物凄く濃いファンみたいな人たちが
取り巻いて近づける雰囲気ではなかった為、そそくさと退散。
ファンの人たちが変な雰囲気で少し怖かったし引きました。
ぶっちゃけもっと正直に言いますけれど、ガンガンデカイ声で
話しかけて武将隊に絡んでいくファンがキモかったです。
私ら、普通の観光客が近づける雰囲気皆無w
知的障害っぽかったから、そういう団体様?と思ったら違うし
ああいう痛いファンが出没する場所は避けたくなる感じよね。
どのジャンルにも変なヤツらがいるなーと思いつつ、
記念写真とか、もうどうでもよくなったので次へ進む。
※このあと、施設の入り口にあった顔ハメパネルを撮影。
(旦那がああいうのに顔を嵌めて写真を撮るのが好きなのでw)
続いては「東照公産湯の井戸」。
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/guide/24
浄水設備を通して井戸から組み上げられた水を
触れる事ができるようになっていますが、飲用は出来ません。


-----------------------------
天文11年12月26日(西暦1542年)に岡崎城内で誕生した
竹千代君(家康公)の産湯に、この井戸の水が用いられたこと
から開運スポットにもなっています。2015年に井戸の水を
汲み上げ直接水に触れられるようになりました。
----------------(岡崎公園 公式サイトより)
酔いそうな角度でごめん。もうちょっと続きますよー。

★その2に続く!
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浜松城内部の地下へと下ります。
地下は狭く、ポツンと井戸があるだけでした。

-----------------------------
浜松城の井戸について
浜松城の天守台には穴蔵と呼ばれる地階があり、
その中央部には石組井戸がある。石組井戸とは穴のまわりを、
石で積んで崩れないようにしたもので、この時代、他の城郭にも
多く見られる。浜松城の他に名古屋城、松江城などにも
天守穴蔵に井戸がある。
井戸は、城内に住む人々の飲料水として、また戦いの時には
籠城になることも想定し、最後の拠点として天守内部や、
天守の間近に設けられることがあった。
-------------------(浜松城 案内板より)

-----------------------------
浜松城の利水について
水は城に住む人にとって最も大切なものである。
浜松城の利水については、安政元年(1854)、東海道沖を震源
とする安政の大地震が発生し、浜松城も大きな被害を被り、
その箇所を記した「安政元年地震破損所巨細書込絵図」に井戸が
記されている。
この城絵図によると、井戸は天守台の穴蔵に1(口径1.3m丸石
をもってかこむ)、天守曲輪の埋門脇に1、本丸に1、二の丸に
3箇所ある。また作左曲輪には4箇所あったという(浜松御在城
記)。
この他に、清水の湧出する清水場が清水曲輪に2箇所あった。
-------------------(浜松城 案内板より)


(=゚ω゚)ノ「城内見学を終えて、お城の外へ出たよ」
SERUNA:「はーい、続いては『櫓』を見学しますよー」

戦国BASARAの家康さん。
このゲーム大好きなのでやっぱり撮ってしまうw

櫓の中からお城にカメラを向けてみる。

石落とし。

天井部はこんな感じ。

建築に詳しい人ならワクワクしてしまうかも?




-----------------------------
江戸時代の城郭建築は、短期間で建築できるシンプルさと、
戦闘に耐えられる堅固さを兼ね備えています。天守門のつくりを
観察すると、太い木材が単純に組み合わされており、
装飾はほとんどありません。
上層の櫓は、天井板がないので小屋組(屋根を支える骨組)が
よく見えます。柱盤を土台として本柱が立ち、その上に梁と桁が
架け渡され、束柱で屋根材が支えられています。
下層の門は、6本の柱の上に、横に梁2本(冠木と内冠木)が
架かっています。
------------------(建築構造説明文より)

静岡県内に住んでいるのにも関わらず、
今回、浜松城には初めて行ったし、初めて中へも入りましたよ。
正直言っちゃうと、え…これだけ?って思ったのは秘密ですが、
ココも日本のながーい歴史の内の一つの舞台となった場所。
歴史に詳しい人もそうでない人も、一度訪れてみては如何かな?
浜松城からは以上です。
スタジオにお返ししまーすw
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