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【月見御殿】

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月見御殿
この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86メートル)で月見崎
といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城
の本丸跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと
伝えている。
----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)

手摺の場所からカメラを敦賀湾の方に向けて、
左から右に撮影。



後ろを振り返ってみる。

この場所で月見をしたら綺麗そうですね。

ちとピンぼけ。
下を覗くと小島のような岬の部分が見えますが、
そこは「絹掛崎」と言われる場所。


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絹掛松
南北朝の昔(西暦1337年)金ヶ崎城は落城したが、
直前に南朝の皇太子恒良親王(当時15才)は蕪木浦(いまの
越前町)にご避難された。その際御衣を脱ぎ岩の松の枝に
掛けられ、小舟に乗り移ったと伝えられ、その松を絹掛松と
言われ、前方の岩付近を絹掛崎と呼んでいる。
----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)
城跡を通って帰りましょう。
【焼米石出土跡】




もう少し色々見ていこうと思ったけれど、
一気に金崎宮まで戻る事にしました。


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2022.5.15 探訪
金崎宮から「金ヶ崎城跡」に向かいます。


【鴎ヶ崎】



進んでいきましょう。


【尊良親王御墓所見込地】



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安政年間(江戸時代末期)この地付近より経塚が発見され、
石室からいずれも銅製の経筒・円鏡・椀(三点とも敦賀市指定
文化財・金崎宮所蔵)が出土した。当時は殆ど話題にならず、
遺物は埋め戻されたという。
明治維新後、建武中興に関する史実の全国的な見直しが行われ、
湊川神社や鎌倉宮、藤島神社などが創建された。
当地においても、金崎城合戦より五百五十余年を経た
明治二十三年、金崎宮が官幣中社に列せられ、同二十六年に
社殿が竣工、鎮座祭が斎行されたが、それに先立つ、同九年
経塚出土品からこの地を尊良親王御墓所と解し「墓所見込地」
の碑が建てられた。
しかし、他に立証する史料に乏しく、また京都市内(左京区
南禅寺下河原町・永観堂そば)に同親王の御墓所が指定されて
いることもあって、現在では親王御台臨、自刀の地として大切
に保存されている。
----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)
もう少し進んでいきましょう。



ちょっと疲れましたがここまで来ました。


【金ヶ崎古戦場】

YouTubeより、
刀剣ワールドのチャンネルから動画を拝借。
【古墳】
明治42年6月に発見された円墳。
竪穴式石室を有し、副葬品は直刀一振・銅鏡一面が出土。


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松本城の内堀あたりをぶらりした写真です。
時刻は16:50。

この時間帯に見るお城の写真も味わい深くて良いですね。


松本城高麗門。

再びお城の景色。



赤い橋は「埋橋(うづみばし)」と呼ばれるもの。
江戸時代には無かったもので後の時代に架けられた橋。
よく撮影されるが、文化的価値はない。

白鳥がいました。
その時、近くにいた親子の会話がおかしかった。
チビッコ:「ママー!白鳥いたよ!白鳥ー!」
母親:「ちゃうやろ、アヒルやん」
チビッコ:「白鳥じゃないのー?」
母親:「ちゃうわ、アヒルやん」
いや、白鳥だろ。



再び埋橋と松本城の景色。
写真を横にしたり縦にしたりすると印象が違うような?


来た場所に戻りましょう。


さよなら松本城。またいつか。

【おまけ】
松本城VRアプリなるものがあるそうです。
https://www.matsumoto-castle.jp/info/vr-apps

松本城仕様の自動販売機。

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三重堀に移動しましょう。少し入った場所に「勘助井戸」が。
案内板によれば「武田氏の軍師、山本勘助の声がかかっている
と伝えられている井戸」とあります。

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三重堀にある勘介井戸には、赤い口の蛭がいます。
敗北を悟った武田軍は城に火をつけ本陣の甲府へ逃げ帰ろうと
しました。その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は
足手まといになるだろうと愛する夫の無事・帰郷を祈りながら
女たちは自ら井戸に身を投げ、その霊たちは口の赤い蛭へ
姿をかえたという伝説があります。
---------------(吉田町ホームページより)
井戸があった跡の側には供養塔がありましたので、
手を合わせてきました。


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供養塔
先史時代、及び武徳の攻防で亡くなられた人々の霊を
供養するために建てられた石塔です。
---------------------(案内板より)
【三重堀】
木や草が生い茂ってわかりづらいかも知れませんが…

上から見下ろしたところ。
木が根っこごとゴッソリ倒れていました。


こう見ると三重堀と言われる理由がわかります。
立っている場所からカメラを左から右に…


来た場所を振り返る。

三重堀には「赤い唇のヒル」が住むようになったという看板が
ありましたが、これは先程の井戸のことを指すのであろうか?
(堀の中?井戸の中?それとも両方??)


さて、戻りましょう。
私たちが訪れた時期は綺麗な梅が咲いていました。
綺麗だったので写真を撮ってきました。


特に「コレが凄い!」というものはありませんが、少し調べて
わかった事といえば小山城の三重堀などは城跡マニアや
歴史マニアが見たら興奮してしまう場所のようです。
(私はそこまでのマニアでは無いので凄さがよくわからない)

吉田町に訪れた際は皆さんもお散歩如何でしょう。
ついでに松浦食品の遠州銘菓「芋まつば」をおみやげにどうぞ。
(これはスーパーでも売られているはず。美味しいですよ♪)
http://www.imomatsuba.com/sub_cate.php/_/2
※オンラインショップでも購入できるようです。
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吉田町のマンホールカードをいただいた後にぶらり。
何度か来た事はあるけどお散歩していきました。

お寺の境内に入って奥に進みます。
緩やかな女坂もありますが、ここは石段を使って…

のぼって後ろを振り返ったところ。
そんなにキツい階段でもありませんね。

【能満寺の虚空蔵尊】
写真の仏様、二体ほど切れてしまっていますが、
お堂の横に仏像が六体並んでいました。仏教徒では無いですが
虚空蔵菩薩は私の守り本尊なので一応お参りしました。
《十二支守り本尊》
子「千手観音菩薩」、丑・寅「虚空蔵菩薩」、卯「文殊菩薩」、
辰・巳「普賢菩薩」、午「勢至菩薩」、未・申「大日如来」、
酉「不動明王」、戌「阿弥陀如来」

完全に日本の宗教みたいな顔してますけど、
仏教ってのは外からやってきた宗教なんですけどね…
全くの別物ですがどことなく神道と通じる部分もあるので
長い歴史を通してうまく定着した感があります。
八百万の神の国なので何でも受け入れちゃう日本だから
仕方ないね。

城跡に到着。


【三日月堀】
武田氏独特の築城によるもので、
三日月の形をしているから三日月堀というのだそう。

【馬出し】
人馬の出入りを敵に知られないよう工夫して築かれた堀。

【虎口(土橋)】
現在は橋が架けられているがその下のこんもりした土の部分。
本丸の入り口で、狭く作られているのはいざという時に
敵の侵入を防ぐのに有効だからだそうな。橋の先に見える木は
ソメイヨシノで春には美しい桜を見ることが出来る。

【小山城】
昔そのままの建造物ではありません。

展望台小山城
http://www.town.yoshida.shizuoka.jp/2350.htm
----------------------------
小山城跡 所在地/片岡2519-1
町指定文化財第四号
指定日/昭和三十九年四月一日
小山城は、戦国末期の平山城である。
遠州進出を企てた武田信玄は、その重要拠点である小山の砦を
攻略し、元亀二年(1571)砦を修築して小山城と命名し、
大熊備前守長秀を城主とした。
徳川軍は、これを攻め取ろうとして十余年にわたり激しい戦い
が繰り返されたが天正十年(1582)二月ついに落城した。
城跡には三日月堀、三重堀、井戸等が残り、落城の悲しい
物語がある。
-----------------(小山城跡 案内板より)

中に入ってみるのもいいかなと思ったけど今回はスルー。
吉田町ホームページによれば、城内には武田氏ゆかりの品々が
展示されているらしい。

むかしむかしの小山城に天守閣は存在しなかった。
この城は、昭和62年に小山町が城跡を能満寺公園として整備
したのち町のシンボルとして犬山城をモデルにして建てられた
「展望台」。歴史的に正しい小山城の形ではないですね。
あくまで観光用としてのお城です。

顔はめパネル。つい撮ってしまう。

小山城を色々な角度から。


どうでもいいお話ですが…
6年前にトコちゃんねる歴史探訪(第二回)で撮影に来ていた
藤波辰爾さんを遠くからお見掛けした事がありました。
https://www.tocochannel.jp/tv/community/historia/shiro.html
※ローカルネットワークのケーブルテレビ番組。
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最後まで一気に写真を貼っていきますよー。
「屏風折れの石垣」辺りまでやってきました。
写真は撮りませんでしたけど、ちなみにここを覗き込まないと
石垣は見れません。


少しウロウロしてみましょう。

高い場所に石碑がたててありました。


昭和十二年四月建立と書かれてあります。
ここで旅の記念写真を撮るには絶好のポイントです。


「温羅舊跡」と書かれた石碑もありました。

積み重なった小さな石が幾つも。
何かがお祀りされているのでしょうか?

土塁もありました。

現在地はこのへん。

《北門跡》
ようやくココまでやってきました。









《礎石建物跡》
鬼ノ城の真ん中あたりにあります。






《角楼跡》付近。
「のろし場」なる物がありました。


ここからも良い景色を眺める事が出来ます。



一周まわって元の場所に戻ってきました。
鬼ノ城に到着したのが15:30で、じっくりと散策しながら下の
写真を撮影したのが17:04。かなり時間をかけましたが、
良い運動にもなったし結構楽しかったです。

【おまけ】
鬼ノ城よりもう少し車で走らせた場所に「鬼の差上げ岩」
なる物があるらしいので見に行こうとしたのですが、
駐車場に駐めたところで時間的に無理かも知れない事が判明
(一応、案内板だけは撮影してきました)。ココでもやっぱり
郷土愛バリバリな超地元民さんが話しかけてこられて、
(静岡から車で来たと言ったらやっぱり驚かれましたよw)
「この時間だと着いた頃には真っ暗になるし危ないから、
あまりオススメはしないよ」だそう。なのでいつかまた岡山に
訪れた時の楽しみにとっておく事にしました。

※これを撮った時点で時刻は17:24。
場所は総社市奥坂の岩屋地区。
ちなみに私たちに話しかけてこられた地元の男性曰く、
「昔の鬼ノ城は木が鬱蒼としてちょっと怖い場所だったけど、
発掘調査をしてからあそこまで綺麗になった」のだそうです。
他にも岡山について色々と面白い話を聞かせてくださり、
ここでも楽しい時間を過ごす事が出来ました。
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