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2022年07月26日 (火) | 編集 |
検索でいきなりココに辿り着いた人は、その1からどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-4111.html

【藩祖 利家公夫人の墓】
前田利家公の正室、まつのお墓です。
前田利家公とまつといえば、戦国のおしどり夫婦。
まつが利家公に嫁いだのは12歳の頃(利家公は22歳)で、
2男9女(計11人)の子供がいたというのはよく知られる話。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_013

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_014

利家公のお墓と同様にこんもりとしています。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_015

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藩祖 利家公夫人の墓
 芳春院。名は松、または昌。
天文十六年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。
同十九年利家公の邸に入り、後にその正室となる。
当時利家公は尾張国荒子城主であった。
 利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の大守に出世したが、
その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。
 関ヶ原合戦の後(利家公の没した翌年)
徳川方と加賀藩との融和のために進んで人質となって
江戸へ送られたのである。
慶長十九年(1614)までの十五年間の長い間、加賀藩のため
に忍従の月日を過ごされたのである。
元和三年(16.7)金沢で没した、享年七十一歳。

---------------------(案内板より)

前田利家公とまつの墓を背後から見たところ。

【前田利家公の墓】(背後から)
20220515_ 加賀藩主前田家墓所_016

間を挟んで…

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_017

【まつの墓】(背後から)
20220515_ 加賀藩主前田家墓所_018

【第二代目藩主 前田利長公の墓】
20220515_ 加賀藩主前田家墓所_019

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_020

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第二代目藩主 前田利長公の墓
 端龍院。初代前田利家公の嫡男として永禄五年(1562)
尾張国荒子に生まる。母は芳春院。幼名利勝、後に利長と
改めた。利家公と共に戦国歴戦の武将である。
 慶長三年(1598)二代藩主となったが、同四年には、
利家公が逝去され、翌五年には関ヶ原の合戦が起きるなど
徳川方と大阪方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田氏の
去就は天下の注目を集め利長公の心労は並々ならぬものが
あったのである。
 利長公の在位はわずか七年であるが、金沢城の修築に
キリシタン大名として有名な高山右近を用い百間堀の石垣
などを作らせた。
 慶長十年(1605)に弟利常に藩主の座を譲り、
自らは富山城に住まわれた。慶長十四年(1609)には
居城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に
城を築き移り住んだ。この間に高岡の開発に努め、
今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。
 慶長十九年(1614)高岡城で苦難の多かった生涯を
閉じた。享年五十三才。
 高岡の名刹 瑞龍寺は公の菩提所である。

---------------------(案内板より)

【第二代藩主 利長公夫人の墓】
20220515_ 加賀藩主前田家墓所_021

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_022

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第二代藩主 利長公夫人の墓 
 玉泉院。名は永、
天正二年(1574)織田信長の四女として生まれる。
 天正九年(1581)越前府中(福井県武生市)に入輿した。
豊臣秀吉の側室淀君、二代将軍徳川秀忠の夫人崇徳院とは
従姉妹である。
 利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、
元和九年(1623)二月に没した。享年五十才。
 金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、
樹木・泉石を配し路地が造られ庭園とした。


---------------------(案内板より)

全部まわるつもりで来たのですが、前田利家公とまつの墓を
お参りしたあとに旦那は「車で待ってる」と先に引き返し、
私はこの時ぼっち行動。周りの景色もこの様子。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_023

広いしどこまで行けるかわからない。
というか全部ってどの位時間がかかるの?と不安いっぱい。
前田家の墓所を一人きりで歩く。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_024

下の写真は12代斉広の墓所そばにある長い石段。
これを見て、更に不安が襲ってきたのでここで引き返す。
全部まわるのは諦めることにした。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_025

クマさんも出没するようなので。
(「単独行動は避けましょう」の言葉は流石にドキッとする)
雑草生い茂る道でクマさんには出会いたくない。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_026

前田家の墓所、もしも時間に余裕のあるかたは
全てお参りをしてみては如何でしょう。


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2022年07月25日 (月) | 編集 |
2022.5.15
前田家の墓所にやって参りました。
観光協会のページにあるリーフレットはこちら→
(星印にリンク貼ってます)

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_001

境内マップを見ると、想像していたよりも広い?
予想ではもう少しギュッとした場所かと思ってたけど違った。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_002

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墓所の概要 
 前田家墓所は、金沢市の南東部、野田山墓地の最高所にあり、
金沢城からほぼ南へ直線距離で3.5kmに位置しています。
標高は高いところで約180mで、範囲は東西に約400m、
南北に350m、面積は86,294,35㎡を測ります。
 墓所は、江戸時代に加賀・能登・越中三ヶ国約100万石を
領有した歴代藩主を中心に、正室、生母、子女ら計84基の
墳墓が造られています。藩主墓は、土を方形に3段重ねた
ピラミッド状の特徴的な形をしており、藩祖利家墓で一辺が
約19m、以降の藩主墓で一辺約16mを測り、高さも5m以上
あります。3代藩主利常墓以降の藩主墓は、溝を周囲に巡らせ
て墓城を形成しています。
 江戸時代の墓所は仏式でしたが、前田家が明治7年に神式葬
に転換したため、同10年(1877)に墓所も改められ、
墳墓の正面に鳥居が建てられました。
 個々の墳墓の大きさ、墓所全体の面積ともに全国でも最大級
の規模で、まさに加賀百万石の大名家墓所として堂々たる威容
を誇っています。


---------------------(案内板より)

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_004

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墓所の特徴 
 藩主墓所の始まりは、慶長4年(1599)に死去した利家の
墳墓造営が契機となります。大坂において死去した利家は
生前に遺言を残し、野田山を墳墓の地に指定しています。
以降、歴代藩主の墳墓はこの地に造営され、近世大名墓所と
して発展していきます。墓所では現在も祭祀が営まれており、
「生きた墓所」である点も大きな特徴といえます。
 墓所は、織田信長・豊臣秀吉の時代から現在に至るまで、
その変遷をたどることができ、規模の大きさと独特の墳墓形態
も含め、日本を代表する大名墓所の一つとして極めて高い価値
を有しています。加えて、大名墓所が持つ多様性を如実に
物語るものであるとも評価されました。


---------------------(案内板より)

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_003

墓所では静かにお参りをしましょう。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_005

駐車場辺りからは町が見えます。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_006

最初に目指すはココ、前田利家公とまつのお墓。

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_007

順番的に、利家公のお墓から先にお参りしたいので、
まつのお墓(下の写真の鳥居がある側)を通り過ぎて…

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_008

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_009

その奥が前田利家公のお墓です。
墓所に来るまで、まさか前田家のお墓の殆どが古墳のような
形になっているなどとは思いもせず。ただ驚くばかり。
しかもデカい。

【藩祖 前田利家公の墓】
20220515_ 加賀藩主前田家墓所_010

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 藩祖 前田利家公の墓 
高徳院、名は犬千代、後に孫四郎、永禄5年(1562)には、
又左衛門と改める。天文7年(1538)尾張国荒子城主
前田利春公の四男として生まれた。
 利家公は十四才のときに織田信長に仕え、生涯四十数回の
戦いに参加、数々の武勲をあげていた。なかでも初陣の海津
の戦い(1551)、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城
(現石川県押水町)の激戦(1584)は有名である。また、
「槍の又左」と異名をとるほど槍の名手であったという。


------------------------続く↓)

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_011

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 天正十三年(1585)九月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を
譲られている。秀吉の天下統一の大業は、利家公に負うところ
が多大であったといわれている。
 大名としては、元亀元年(1570)、近江国長浜で一万石を
領したのにはじまり、越前府中(福井県武生市)で
三万三千石余、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡
を秀吉から増封され、天正十一年(1583)四月二十五日
(新暦六月十四日)に金沢城(当時は尾山城)に入城した。
利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。
この日を記念して毎年六月十四日には封国祭と百万石祭りが
盛大に行われている。
 慶長四年(1599)大阪城で逝去、享年六十二才。
金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。

---------------------(案内板より)

20220515_ 加賀藩主前田家墓所_012

前田利家公の青年期は織田信長公に仕え(15歳の頃)、
「槍の又左」と恐れられていた。容姿端麗で180cmの大柄。
信長公の衆道の相手としても知られていたそうな。


★その2に続く。
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2022年06月09日 (木) | 編集 |
2022.4.22 探訪 
長野県佐久市にある「関所破りの桜」
撮影した時間帯が朝なので写真が暗っぽくてすいません。
場所は「五郎兵衛記念館」のある辺り。市天然記念物。

20220422_関所破りの桜_佐久市_001

20220422_関所破りの桜_佐久市_002

20220422_関所破りの桜_佐久市_003

YouTubeから動画を拝借。

長野県 関所破りの桜と浅間山 


20220422_関所破りの桜_佐久市_004

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 この場所にはかつて市川五郎兵衛を祀った「真親神社」が
建っていました。真親神社のおこりは、明和元年(1764)
に「五郎兵衛」を祀った石祠からはじまります。
寛政6年(1794)「真親霊神」という神号が授けられ、
文化8年(1811)には本殿と拝殿が再建されました。
 関所破りの桜は真親神社の参道の脇に植えられたもので、
いつの頃か定かでないが「良い枝垂れ桜が慈眼寺(群馬県
南牧村)にあるので取りに来るるように」と市川家から連絡
がありました。連絡を受けた村人が取りにいったものの、
うっかり関所の通行手形を忘れてしまいまったのです。
困った村人がワケを話したところ、関所の通行を許可された
というエピソードからこの桜は「関所破りの桜」と
呼ばれるようになったそうです。


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【おまけ】
「ほっとぱーく・浅科」
https://hotpark-asashina.com/
この日にマンホールカードを貰いに行こうとしたら、
一時的に休止中で残念でした。

20220422_ほっとぱーく浅科_佐久市_001

20220422_ほっとぱーく浅科_佐久市_002

ちなみに佐久市は佐久鯉が名産品。
早くに着いてしまったのでお店はまだ開店前。
ほっとぱーくで鯉の旨煮や天ぷらが食べたかったな。


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テーマ:信州
ジャンル:地域情報
2021年09月28日 (火) | 編集 |
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20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_009

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駿遠線SL「B15」
 正式名称は静岡鉄道B8形15号機。
動輪の数が2軸(B形)の、8トンのタンク機関車である。
太平戦争中に設計され、戦後の昭和23年(1948)に
静岡鉄道駿遠線に導入された立山重工業(富山県)製の
戦時規格車2両のうちの1両。おもに専用鉄道向けに製造された
立山重工業製の機関車の中で、静岡鉄道のような地方鉄道に
採用された珍しいケースである。
 昭和23年当時、駿遠線では終戦後の急激な輸送力拡大に
対応するために、蒸気機関車を増備する必要があった。
B15は、物資統制下に作られた簡素な戦時設計であり、
ドームは角形で、運転台も低いなど全体的に見栄えが良くない。
駿遠線を走行したのは昭和23年〜27年頃の短期間である。

-----------------------(↓続く)

※下の写真はB15を後ろから撮影したもの。
20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_010

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 駿遠線の蒸気機関車の多くがディーゼル機関車に改造
されたなか、B15は改造に不向きだったため、
予備用の機関車としてそのまま温存され、昭和45年(1970)
の廃線を迎えた。廃線後は駿府公園内(静岡市)の
静岡児童会館で保存展示され、その後、静岡鉄道長沼工場を
経て、昭和63年(1988)7月、静岡鉄道株式会社より
藤枝市郷土博物館へ寄贈された。
(参考/『静岡鉄道駿遠線車両史』中村修、2000年)

【車両諸元】
最大長 500cm 最大幅 177cm 最大高さ 266cm

---------------------(説明文より)

【B15形式図】

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_011

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_012

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_013

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_014

運転台前方。
石炭の投入口である焚口戸が見えます。

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_015

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_016

運転士が座る椅子はちょっとかたそう。
中に入りたかったけど時間外でしたので柵に鍵がされており、
内部での撮影は不可能でした。(´・ω・`)

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_017

B15側面。

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_018

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_019

勘違いして欲しくないが私は鉄オタではありません。でも、
無骨な鉄の塊だけど汽車って完璧な形で可愛いと思ってます。
昔はこんな小さなSLが走っていたんですね。
コレが走っている所を見てみたいけど、
復刻してどこかで走らせるのはもう無理なのかな。


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テーマ:静岡県
ジャンル:地域情報
2021年09月18日 (土) | 編集 |
2021.4.2 探訪 
蓮華寺池公園を訪れた日(↓)に撮影しました。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3790.html
藤枝市郷土博物館の横に展示される駿遠線SL「B15」。
かなり小さめなSLです。

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_001

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日本一の軽便鉄道「静岡鉄道駿遠線」 
 大正から昭和にかけて、藤枝から袋井を結ぶ軽便鉄道が
走っていました。軽便鉄道とは軽便鉄道法(1910年制定)に
もとづき建設された簡便な鉄道のことをいい、
路線幅は762ミリと狭く、国鉄(現JR)在来線の1067ミリの
約3分の2でした。開業当初、鉄道名は藤相鉄道でしたが、
昭和23年(1948)、西駿河の藤枝と遠州袋井を結ぶ長大な
路線となり、静岡鉄道駿遠線と改称されました。
 軽便の歴史は、明治44年(1911)、当時の藤枝町をはじめ
志太・榛原地域の有力者35名が発起人となり藤相鉄道株式会社
を設立したことに始まります。大正2年(1913)大手駅〜藤枝
新駅間が開業、大正7年には相良駅まで開通しました(のち
岡部や地頭方面へも延伸)。国鉄藤枝駅へ接続する藤相鉄道は、
藤枝の特産であるお茶・みかん・志太梨をはじめ、志太・榛原
の特産物を輸送・出荷するための鉄道として、地域の発展に
重要な役割を果たしました。

-----------------------(↓続く)

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_002

----------------------------
 昭和18年(1943)、太平洋戦争中の国策により静岡鉄道
株式会社に合併され、昭和23年に袋井駅〜新三俣駅間を運転
していた中遠鉄道と連結して静岡鉄道駿遠線となりました。
大手駅〜袋井駅間の全線の総延長は64.6kmとなり、
昭和戦後に営業した軽便鉄道では日本一の長さを誇りました。
 昭和20〜30年代、終戦直後の食料買い出し客や、
高度経済成長期の通勤・通学客、夏の海水浴客で大変賑わい、
「軽便」の愛称で親しまれました。しかし、バス・トラック・
マイカーの普及によるモータリゼーションの波や、
大井川木橋の老朽化により営業を続けることが困難となり、
昭和39年(1964)から区間ごとに順次廃線となりました。
昭和45年(1970)7月31日、最後の新藤枝駅〜大井川駅間が
廃止となり、57年に及ぶ軽便の歴史は惜しまれながら
幕を閉じました。

---------------------(案内板より)

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_003

----------------------------
軽便SL「B15」正式名称 静岡鉄道 B8形 15号機 
 太平洋戦争中に設計された立山重工業製(富山県)の
8トンB形タンク式の国産蒸気機関車。戦時設計のため角ばった
簡素な造りとなっています。駿遠線では昭和20年代に走行
しました。駿遠線に在籍した車両は合計153両あるましたが、
唯一の現存車両です。
 廃線後、静岡市の駿府公園内の児童会館で保存展示された後、
昭和63年(1988)、静岡鉄道株式会社から郷土博物館へ寄贈
されました。駿遠線の歴史を後世へ伝える生き証人であり、
軽便のまち藤枝が誇る貴重な鉄道遺産です。

---------------------(説明文より)

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_004

20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_005

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20210402_藤枝郷土博物館_ 駿遠線SL_B15_008

駿遠線は私が生まれた頃には既に廃線となっていましたので
どんな様子だったのかは全くわかりませんが、
かつて鉄道が通っていた場所や駅があった場所などを辿ると、
(完全に消滅している所もありますけど)サイクリングコース
や生活道路となっている所、境界杭が残っている所、橋の下に
枕木が残されてある所もあったりと僅かにその名残を感じる事
が出来るみたいです。

YouTubeから動画を拝借。
廃線跡を辿っていらっしゃる人がいました。

【ぶらり廃線跡の旅】静岡鉄道駿遠線1/3(駿河岡部~新相良)



★その2に続く!
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2021年09月17日 (金) | 編集 |
歴史モノの冊子を探していたら、
西南戦争田原坂顕彰会のサイトに「年刊田原坂」という
「田原坂西南戦争資料館」にて無料配布されている
フリーペーパーのPDFがありました。

イラストも素敵なので歴史が好きなかたはいかがでしょう。
リンクを貼っておきます。
https://tabaruzaka-kensyokai.jimdofree.com/田原坂西南戦争資料館/#cc-m-19099913925

冊子_年刊田原坂_2021

2021年9月現在、Vol.7まで出ている模様。
(なぜか私のiPadでは最新の冊子だけが表示されなかった…)
データではなく本当は紙媒体としての冊子が欲しいのですが、
熊本へは遠くて行けず残念(取り寄せも出来ないっぽい?)。
(´・ω・`)

コレ以外にもなかなか良い歴史モノの冊子等を見つけたので
追加でこんなのいかがでしょう。

「マンガでたどる戦国武将島津義弘」の冊子がPDFで閲覧可能。
https://www.city.aira.lg.jp/yoshihirokou.html
(リンク先:姶良市)

【冊子以外】
実用性があって可愛いのを見つけたので貼っておきます。
家紋付きの便箋・封筒がダウンロード出来るページ
http://www.reki-c.com/club_binfu.html
家紋付きのブックカバーがダウンロード出来るページ
http://www.reki-c.com/club_bookcover.html
種類が大量にありました。(リンク先:歴史倶楽部)

関連してこちらの過去ログもどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3516.html


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