「今井まちなみ交流センター(旧高市郡教育博物館)」
にやって参りました。マンホールカードだけを頂く事を目的に
訪れたので内部は見学していませんけれど、歴史の足跡として
外観の写真だけをアップしておきます。



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今井まちなみ交流センター・華甍
奈良県指定文化財 旧高市郡教育博物館
正面の建物は、大正天皇ご成婚の際、畝傍御陵に参拝され、
その時の御下賜金によって建設された教育博物館である。
その後、今井町役場等に使用され現在に至る。
建設年代は、棟札により明治三十六年に竣工した事が知られる。
二階建の本館と、平家の両翼廊よりなり、左右対称である。
木造、入母屋造、桟亙葺で、正面上部に切妻造りの張り出し
を設け、下部に玄関を付ける。
正面二階の縁は、雲斗きょう風の組物で受け、
妻飾りは叉首組として簡素にまとめ、独特な窓飾り等を巧みに
取り込み、全体に和風的なおちついた外観に仕上げている。
この建物は奈良県下の数少ない明治建築の好例であり、
近代社会教育施設の遺構としても価値が高く、伝統的な町並み
を残す今井町の環境にもふさわしい建築物である。
---------------------(案内板より)
このくらいの時代の建物って昔からなんか好き。
形が美しいし雰囲気も最高。


本当は中も見てみたくなったんですが、
他に行かなければいけない所もあるのでまたの機会に。
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今井まちなみ交流センター(旧高市郡教育博物館)
https://www.kashihara-kanko.or.jp/spot/008.html
住所/奈良県橿原市今井町2丁目3番5号
電話番号/0744-24-8719
開館時間/午前9時~午後5時まで(最終入館は4時30分)
休館日/年末年始(12月29日~1月3日)
入館料/無料
※施設情報は2021年3月現在のものです。
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【歴史の小部屋 伊東の開祖 伊東祐親】
部屋の中にパネルが置かれてありましたが、
バッテリーが少なかったので写真コレだけですいません。
「伊東祐親」についてはダイジェスト版として
伊東市文化財史蹟保存会のページに漫画がありましたので、
そちらをご覧になってみてはいかがでしょう。
ふるさとコミック「伊東むかし物語〜伊東祐親とその時代〜」
http://ito-hozonkai.org/pdf/sukechika_mizuguchi_org2.pdf


【歴史の小部屋
伊東のまちを愛した世界の提督 東郷平八郎元帥】
部屋の中には展示物が色々置かれていました。
(パネルが光ってしまい、上手く撮影出来なくてすいません)
東郷さんと伊東市については、伊東東郷記念館のアーカイブス
(資料集)のページをリンクさせておきます。
http://ito-guide-sigaiti.eco.coocan.jp/law.html


どこのお部屋か忘れましたが、部屋の中から外を撮影。
東海館の横を流れる「伊東大川」が見えます。

【3階大広間】
広間中央に座り金屏風の方を見る。

後ろを振り返ったところに雛人形。
訪れたのが4月でしたので、お雛さんが展示されていました。
※ちなみに静岡県で雛祭りは4月に行います。



最上階へ向かいます。


【最上階(望楼)】
この階は1949年に建築されたそうで、
当時周辺にある建物は今と違って低層建物だったため
天城山がここからよく見えたそうです。


今見える景色はこんなですね。景色を遮る建物だらけ。
まずは三島信用金庫が見える海側方面。


いでゆ橋の方向にカメラを向ける。


施設の外に出ました。
川の向こうから東海館を撮影してみましょう。


上の写真の景色に向かって左方向。
川を挟んで左手側がホテルラヴィエ川良。
右手側が伊東園ホテル。

東海館の近くにちょっと気になるラーメン屋さんがあったので
いつかまた訪れようと思う。
【プチ呟き】
ガラホのカメラの設定をどこか押してしまったのか、
白飛びが酷くてすいません(最近気付いて直しました)。
何とか見れるくらいには調整したけど上手くいってないかも…
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伊東市にあります「東海館」にやって参りました。
この施設は入浴もできますが、目的はマンホールカード。
カードをいただきついでに館内の見学もしました。


伊東市指定文化財
旧木造温泉旅館 東海館
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種別 有形文化財
指定年月日 平成11年3月30日
東海館は伊東市を流れる松川河畔にある大正末期から
昭和初期の温泉情緒をいまに残す木造三階建て温泉旅館群の
一つです。昭和3年(1928)に創業、昭和13年頃(1938)、
昭和24年頃(1949)に望楼の増築など、幾度かの増改築を
行いながら旅館業を営んでいましたが、平成9年(1997)、
70年近く続いた旅館の長い歴史に幕を下ろしました。
その後、伊東温泉情緒を残す街並みとしての保存要望もあり、
所有者から建物が伊東市に寄贈されることになりました。
平成11年(1999)には、昭和初期の旅館建築の代表的な
建造物として文化財的価値をもち、戦前からの温泉情緒を残す
景観として保存し、後世に残す必要があるという理由から
市の文化財に指定されました。平成11年から平成13年にかけて
保存改修工事が行われ、平成13年(2001)7月26日、
伊東温泉観光・文化施設『東海館』として開館しました。
-----------------------(↓続く)

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創業者の稲葉安太郎氏が材木店を営みながら、
国内外の高級な木材を集め、この旅館を建てる際に形や木目
などの美しく質の良い木材などをたくさん使っています。
昭和13年頃に建築された部分では3人の棟梁を各階ごとに競作
させたこともあり、廊下の飾り窓や階段の手すりの柱などに
それぞれ違った職人の技と凝った意匠を見ることができます。
他にも、玄関の豪快で力強い彫刻や書院障子の組木のデザイン、
照明器具などもみどころです。
------------------(東海館 説明文より)
「テルマエ・ロマエ」のコミック4巻に東海館が登場したよー
というパネルがありました。

館内にお邪魔いたします。


本当はここでゆっくり見学をしていく予定は無かったので、
ガラホの充電をフルにしていなかったんです。
電池残量が少ない状況のなか、少なめに撮影してきました。
本当はもっと撮りたかったんですけどね。


建物は耐震補強がされています。

【客室と廊下】

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ここは昭和13年(1938)に竣工し、当時は新館と呼ばれて
いました。この新館は創業者の稲葉安太郎が、
田中萬作(一階)、森田信良(二階)、山本増衛(三階)
の地元で腕の良い棟梁に各階を担当させ、競わせたといわれて
いる部分です。白熱灯と使い込まれた木が生み出す静寂な
雰囲気が漂う、廊下と雁行する一戸建風の客室は当時の面影を
よく残しています。入り口についている変木と一つ一つ丁寧に
細工が施された竹の模様の照明も見どころです。
---------------------(説明文より)


【牡丹の間】
客室はたくさんあるのですが少しだけしか撮っていません。
申し訳ないです。

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昭和13年竣工の新館と呼ばれた客間の一部です。
客室入り口には、透かしの入った擦りガラスの笠がとりつけ
られ、木造建築の良さを引き立てています。
床の間のつくりは、やや崩した造りの「行」の構えと
言われています。床柱には、天然杉の絞り丸太が使われて
います。ここは、付書院(出書院)といって、縁側に出窓を
張り出させ、障子と欄間を入れ、棚板を設けるものです。
書院障子は魚を獲るための投網と杭のような文様、
書院欄間には、麻の葉の文様が組まれています。
---------------------(説明文より)



★その2に続く!
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静岡市内にこんな史跡があるのはご存知だろうか。
ちなみにずっと前はこのようなイラスト看板がなくて、
誰にも気づかれないような恐ろしく地味な場所だったんです。
場所はペガサートの一角。
http://www.pegasart.com/access/



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静岡市指定文化財(史跡) 西郷・山岡会見の地
指定年月日 昭和四十二年七月十二日
所在地 静岡市葵区伝馬町
慶応四年(1868)、江戸に向け駿河に進軍した有栖川宮
熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と、徳川幕府
十五代、最後の将軍徳川慶喜の命を受けた旧幕臣山岡鉄舟の
会見が同年三月九日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で
行われた。
この会見において、徳川慶喜の処遇を始め、
江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引き渡しなどが
合意され、五日後の三月十四日、江戸・芝田町の薩摩藩邸で
山岡鉄舟も同席した西郷隆盛と勝海舟との会談により最終的
に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられるものである。
---------------------(案内板より)
鉄舟さんのパネルに、身長188cmと書かれてありましたが…
かなり身長デカかったんですね。対する西郷さんの身長も
気になったのでググったら180cmと出てきて驚きました。
今ですら180超えは長身なのに、昔の価値観で言うならば
現代よりも「かなりな大男」って感じだったかもですね。

イラスト・漫画の作者は「たたらなおき」さん。


一コマづつ。
この話と関係ないが、ちと豆知識として書いておくと…
徳川慶喜公は静岡では「けーきさん」と呼ばれています。
(「けいき」でなく静岡独特な「けーき」とのばす発音)
カメラを使いこなし自転車にも乗っていたなどなど
新しい物好きで、静岡の人間から親しまれていたそうな。




…というワケでココは駅からそう遠くない場所にありますので
静岡へ訪れた際はちょっと立ち寄ってみるのは如何でしょう。
城はないですが近くに駿府城公園もありますよ♪

詳細はこちら(リンク先:静岡・浜松・伊豆情報局)。
https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/sz534/
アクセス/静岡県静岡市葵区御幸町3-21
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随分前に何かのテレビ番組で「珍しい橋がある」という感じで
紹介されていて、いつか生で見てみたいと思っていたところ、
たまたま通りがかりに「猿橋」の案内板を見つけて「あぁ!」
となり立ち寄ってみることに。

猿橋の側に鎮座する小さな神社「山王宮」。



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推古朝のころ、志羅古という造園の巨匠が猿橋に住み着いた。
村長は息子恭任を弟子に、娘の美久里をかしづかせた。
ある月明の夜、たくさんの猿が来て手と足をつないで橋を架けた。
これをみて猿橋の断崖に架橋を考えていた志羅古は設計を完成
させた。休んでまどろむと、急に2匹の猿が飛び込んできて、
ここに橋を架けるのなら、病気の猿王様のために申年申の日申
の刻に生まれた未婚の男女の生血を差し出せ、そうしなければ
妨害するという。志羅古は架橋を強行するが暴風雨のために
橋は何度も流されてしまう。
志羅古は該当者である自分と美久里とでいけにえになり、
あとは恭仁に託し、橋を完成させた。猿に因んで猿橋と名をつけ、
猿王を祀る小社を傍らに立て山王宮とよぶ。
http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/0450063.shtml
(リンク先:国際日本文化研究センター)
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こちらに見えますのが「猿橋」でございます。

甲斐の猿橋
https://otsuki-kanko.info/category/content-page/view/31
(リンク先:大月市観光協会)
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名勝 猿橋 昭和七年三月二十五日指定
猿橋架橋の始期については定かでないが、諸書によれば
「昔、推古帝の頃(600年頃)百斉の人、志羅呼、この所に
至り猿王の藤蔓をよじ、断崖を渡るを見て橋を造る」とあり、
その名はあるいは白癬(しらはた)、志耆麻呂(しきまろ)
と様々であるが、これ以外の伝説は見当たらない。
史実の中では、文明十九年(1486)二月、聖護院の門跡
道興はこの地を過ぎ、猿橋の高く危うく渓谷の絶佳なるを
賞して詩文を残し、過去の架け替えや伝説にも触れています。
応永三十三年(1426)武田信長と足利持氏、
大永四年(1524)武田信虎と上杉上杉憲房との合戦の場と
なった猿橋は、戦略上の要地でもありました。
-----------------------(↓続く)

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江戸時代に入り、五街道の制度が確立してから甲州街道の
要衝として、御普請所工事(直轄工事)にて九回の架け替えと、
十数回に及ぶ修理が行われてきました。
この間、人々の往来が頻繁となり、文人墨客はこの絶景に
杖をとめて、多くの作品を今に残しています。
昭和七年、付近の大断崖と植生を含めて、猿橋は国の名勝
指定を受け今に至っています。昭和九年、西方にある新猿橋の
完成により、この橋の官道としての長い生命は終わりましたが、
その後も名勝として生き続けています。
今回の架け替えは、嘉永四年(1851)の出来杉帳により架け
られており、江戸時代を通してこの姿や規模でありました。
昭和五十八年着工、昭和五十九年八月完成、総工費三億八千
三百万円であります。
橋の長さ30.9メートル、橋の幅3.3メートル、
橋より水際まで30メートルです。
-------------------(猿橋 案内板より)
猿橋を渡ってみましょう。

桂川で遊覧体験が出来るそうです。
https://l-outdoor.com/outdoor/saruhashi_yuran.html

「猿橋から見えるアレは何だ?」と調べてみたら、
「八ツ沢発電所施設 第一号水路橋」という橋だそうです。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/147648



新猿橋の方向を見てみよう。
上から下にカメラを向けてみると…結構高いんだなココ。
吸い込まれそうな感じでちょっと怖いが、この景色は美しい。


猿橋の特徴的な部分はココ。

「明治天皇御召換所趾」の石碑がありました。

いやはや実に良い橋&良い景色。

新猿橋から見た猿橋。


先程見た水路橋とあわせても、恐らく橋マニアの人たちならば
きっと必ず訪れる場所なのではないでしょうか。
なかなか良いものを見る事が出来て楽しかったです。
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