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定食屋さんに訪れるような感覚で見てもらえたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々。ヲタクなネタから神社めぐりまでw
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2019年12月08日 (日) | 編集 |
いきなり検索でココに辿り着いた人は、その1からどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3010.html

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下の写真は「皇居正門石橋旧飾電燈」。

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どんどん歩いていきましょう。

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下の写真は「百人番所」。

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 江戸本丸への道を厳重に守る大手中之門に向き合って
設けられた警備詰所です。甲賀組、伊賀組、根来組、
二十五騎組という4組の鉄砲百人組が昼夜交代で勤務して
いました。各組は、20人の与力と、100人の同心で構成
されていました。


---------------------(案内板より)

百人番所のそばにある「中之門」。
ちなみにですが下の写真の門に向かって右手側の写っていない
部分で数人の警察官に囲まれモメているおっさんがいました
スキンヘッドの男だったけど、まさか前にニュースになってた
荷物検査を拒否していた男と同一人物ではあるまいな?
声を荒らげてなんか言ってたけど、遠巻きに見ていたから
なんでモメているのかがよくわからなかったよ。

番所があるココが昔は怪しい奴をせき止める場所だという点で
現代も似た役割を果たしていたのを目の前に、実に面白い光景
を見てしまった気分になりましたw

警察官の皆さん、変なヤツ相手にお仕事お疲れ様です。

20191203_皇居_026

「同心番所」。

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----------------------------
 「番所」とは警備詰所のことで、江戸城にあった番所
のうち、百人番所、大番所、同心番所の3つが残っています。
ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の
監視に当たっていました。屋根瓦には、皇室の菊の御紋のある
ものや徳川家の葵の門があるものが見られます。


---------------------(案内板より)

皇宮警察のパトカー。
この車は皇居の中をパトロールしているもので、
外の公道を走っていることは滅多にないそうです。

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「大手門」。ここから退場しました。
出てすぐに信号があるためちょっとした渋滞が。

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大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。
大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し
易い構造になっています。大きい方の門は、昭和20年
(1945年)4月の空襲で焼失した、昭和42年(1967年)に
復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、
頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。
この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火
が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に制作された
ものと考えられます。


---------------------(案内板より)

門のそばにあった「鯱」。
小さな女の子が指差しお母さんに何度も「…エビ?…エビ?」
と聞いていて、思わずほっこりしてしまいました。可愛いw
(「エビちゃうわ」というお母さんのツッコミにも笑った)

20191203_皇居_037

うん、確かに小さい子にはエビフライに見えちゃうかもね。
お子様ランチに乗ってるエビがこんな感じだもんねw

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大嘗宮の拝観、楽しかったです。
貴重なものを見せていただきありがとうございました。

20191203_皇居_039


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ジャンル:地域情報
2019年10月15日 (火) | 編集 |
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武蔵小杉、田園調布、稲田堤...
台風19号で水害にあった地域を古地図で見てみると、
興味深い"共通点"があるよって話

https://togetter.com/li/1416315
(リンク先:まとめ)

地名の由来トピ
https://girlschannel.net/topics/2382198/
(リンク先:ガールズちゃんねる)

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「地名についてもっと興味を持ってほしい」
というのはこのブログで何度も何度も触れていますが、
災害があるたびにこういった話が持ち上がってくるので、
本日はこんな過去ログ(↓)を貼っておこうと思う。

関連過去ログ/地名って面白いよね。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1502.html

地名だけでなく川の名前からも色々わかったりしますね。
それだけでなくいま何もなくて安心している場所だとしても、
何十年前には災害がなかった地域でも、さらにもっともっと
時代を遡って古地図などを見たりその土地がどんな所だった
のかを調べてみて欲しいってのは声を大にして言いたいッス。
…ってか、このブログをずっと見ているかたならもうとっくに
ご存知かと思いますが、大事なコトだから私、繰り返し何度も
言ってますよね?ね?(^ω^ ;)

自分は神社めぐりをする時にその「土地の名前」や「古地図」
「物語」などにも興味を持って調べる事が多いのですが、
災害が起こった時に「ああ、やっぱりあそこは…」と思う事が
多々あったりします(例えばですが茨城県。風土記やその土地
に伝わる昔ばなしからも知る事ができたりするんですが、
あそこは遥か昔に広範囲で沼地だったり、かつて川があった
場所も現在ではすっかり何もなかったかのように埋め立てられ
ていたりする所がいくつも存在してます)。

災害に遭いたくないからハザードマップを参考にするのは当然
ですけれどハザードマップだけでは資料が足りないんです。
昔ばなしや地名、古地図にも興味を持ってください。
災害は、昔ばなしの中で何らかの空想上の生き物に例えられ、
語り継がれているものもあるからバカに出来ないですよ。
それらに興味を持つ事によって、その場所の歴史を知る事だけ
ではなく災害について普段から何らかの対策や心構えが出来る
かも知れない。

「今は何もないから大丈夫」
「昔ばなしなんて知らんし興味ない」
なんて言わないで欲しいな。


ちなみに我がふるさと焼津は日本武尊ゆかりの地名ですが、
遥か昔は葦のいっぱい生えた場所でした。
川や沼地を埋め立てている所も確かあるはずなので、
地盤も弱くとても不安な土地だったりする。

余談です
地名はね、ご先祖さんがちゃんと意味を持たせて残している
んですよ(ただし最近とってつけたようなキラキラネームに
変えられてしまっている所があるけど、それは無視してOK。
そういう所は元の地名が何だったのかに注目しよう)。

あ!あともう既に知ってる人は多いかと思われますが、
東京も意外と脆いですよ。大丈夫と思っていても
全然大丈夫じゃない所があるから気をつけてねー。


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2019年10月08日 (火) | 編集 |
2019.9.27 探訪
五稜郭といえばまず北海道が思い浮かびますが…
日本に五稜郭はそれ以外にもう一つあるってご存知でした?
それがここ、長野県佐久市にある『龍岡城五稜郭』
現在は佐久市立田口小学校が建っています。

20190927_tatsuokajyou_001.jpg

五稜郭って上から見ないと形がわからんのですよね。
まず、ドローンなんか持ってはいないし、持っていたとしても
学校を上から無断で撮影したら完全に不審者w
…なので当然、外堀からそれとわかる部分しか確認できず。

20190927_tatsuokajyou_002.jpg

20190927_tatsuokajyou_003.jpg

案内板にあった図を撮影。
(昔はこんなんだったんですよーという説明図)
上から見ると、北海道にある五稜郭と同じ形をしています。

20190927_tatsuokajyou_004.jpg

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 信州に一万二千石、三河に4千石の封地を持つ三河奥殿藩の
松平氏は、宝永以来百六十年間 三河に本拠を持ち、佐久には
陣屋を置いて、領内二十二か村の統治をつづけてきたが、
11代乗謨になって、幕末激動の状勢に応じて信州に居館を移す
ことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)
竣工、地字名をとって龍岡城と称した。
用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、
総費用四万円余であった。藩主乗謨は学才識見ともにすぐれ、
幕府の陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき、明治に
入っては、佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を
創設し、副社長、又、賞勲局総裁など歴任した。
 築城にあたっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる五稜郭が
成立した。そしてこれより四年前完成した函館五稜郭址ととも
に、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。
 廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、さいわい濠と
石塁、建物の一部大台所を残している。

注 松平乗謨、田口藩最後の藩主で明治初年 大給恒と改姓名

---------------(龍岡城五稜郭 案内板より)

何度も言うが現在は小学校の敷地。
小学生がサッカーをして遊んでいたのでカメラを向けるのにも
少しばかり戸惑いましたが案内の冊子と一緒に撮影。
私らは決して怪しい人じゃないよー。単なる観光客だよー。

※写真は小学校のグラウンド。
20190927_tatsuokajyou_005.jpg

龍岡城五稜郭(龍岡城跡)内にある神社「田口招魂社」
北越戦争・日清戦争・日露戦争・大東亜戦争等で命を落とした
英霊が祀られています。

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【おまけ】
龍岡城五稜郭の外側に設置されていた農業集落排水のマンホ。
中央に入っているのは五稜郭のマークでしょうか?
(ちなみに田口小学校の校章も五稜郭のデザインでした)

20190927_tatsuokajyou_011.jpg


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2019年07月19日 (金) | 編集 |
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神社から少し歩いたところに『お照の墓』があるそうで、
気になってしまい行ってみることに。少しばかりわかりづらい
場所にありました。

20190125_お照の墓_001

この標識が現れるまで歩きながらキョロキョロ。
途中でどこかで道を間違えたのかとドキドキしてしまった。

20190125_お照の墓_002

何の神様がお祀りされているのかわからない小さな神社。

20190125_お照の墓_003

お墓への道が崩れてどこへ行ったらいいのか…
途中で道を見失いそうになったが、なんとか到着。

20190125_お照の墓_004

20190125_お照の墓_005

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貧女の一燈 お照の墓
 高野山奥の院に、千年近くの間光り輝いている貧女の一燈と
言われる燈籠があります。お照という少女が、自分の髪を売った
金で養父母の菩提を弔うために献じた一燈です。
 お照はその後、ここに庵を結び養父母の菩提を弔いつつ生涯を
終えたと伝えられています。
 天和二年(1682)妙春尼により供養塔が建てられ、貞享五年
(1688)天野の郷供僧、浄意が女人の苦しみを救うために、
代受苦の行を勤め、ここに碑が建てられました。
 この上に実父母の墓と伝えられる碑があります。

----------------------(案内板より)

20190125_お照の墓_006

自然にまかせたままなのか、
お墓の周辺が荒れてしまっているようにも見える。
もう少し綺麗にしてあげてほしいな…

20190125_お照の墓_007

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20190125_お照の墓_009

【貧女の一灯 長者の万灯】※pdfで開きます。
http://www.katsuragi-kanko.jp/hinniyonoistutou.pdf


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