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2021年02月15日 (月) | 編集 |
検索でいきなりココに辿り着いた人は、その1からどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3584.html

南神門をくぐってお参りしましょう。

20201109_橿原神宮_013

中に入るとこんな感じの景色が広がります。
向かって左手、外拝殿側からカメラを右に向けてみます。
時間が時間だっただけに写真が暗くてゴメンよ。(´・ω・`)

20201109_橿原神宮_014

20201109_橿原神宮_015

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 畝傍山を背景に、両脇に長い廻廊を連ねた壮大な入母屋造り
の外拝殿は、昭和14年に完成した建物で、昭和の神社建築の粋
ともいうべき豪壮さがうかがわれます。
外拝殿の石階段を上ると、正面に内拝殿が見え、その屋根越し
に幣殿の千木・鰹木が金色に輝いてそびえています。
このあたりからの景観は、八紘為宇の大理想をもって国を
肇められた神武天皇の宏大無辺な御神徳を景仰するに、
まことにふさわしいものがうかがえます。

---------------(橿原神宮 公式サイトより)

20201109_橿原神宮_016

橿原神宮
https://kashiharajingu.or.jp/
御祭神/神武天皇、皇后 媛蹈韛五十鈴媛命
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建国の聖地・橿原、ここから日本という国が始まりました。
 日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国
の地と記された橿原。天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命
(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、
九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、
畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇
として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前の
ことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、
日本の原点ともいえるでしょう。


-----------------------(↓続く)

20201109_橿原神宮_017

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橿原神宮は、神武天皇の御聖徳を永く後世に伝えたいという
国民の願いから創建されました。

 天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に仰せになった
「豊葦原の瑞穂国はわが子孫の君たるべき国なり」のお言葉
通り、神武天皇が国内を統一なさり、畝傍山の東南・橿原の地
に皇居を造られ、即位の礼を行われました。明治時代に入り、
天皇の御聖徳を永遠に尊び敬いたいという思いから、
この地に神宮創建をという請願が民間有志より出されました。
明治天皇がこれを深くほめたたえ、元京都御所の賢所と神嘉殿
を下げ渡され、明治23年4月2日、官幣大社・橿原神宮として
御鎮座になりました。

---------------(橿原神宮 公式サイトより)

20201109_橿原神宮_018
※拝殿内では撮影していません。

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神苑
 境内地は五十万平方メートル(十五万余坪)からなり
表参道北側の森林植物園その他緑苑は紀元二千六百年当時
全国各地から奉献された樹木約八万本が植栽され延百二十万人
の勤労奉仕隊によって造成された。

----------(一の鳥居側にあった案内板より抜粋)

橿原神宮の絵馬。

20201109_橿原神宮_019

20201109_橿原神宮_020

20201109_橿原神宮_021

ささっとお参りを済ませる旦那と私。
「日が沈んでしまう前に神武天皇の御陵に行かねば!」
本当はまだ少し居たい気持ちを抑えつつ、
足早に橿原神宮をあとにしました。

★神武天皇陵に続く!
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2021年02月15日 (月) | 編集 |
2020.11.9 参拝 
「橿原神宮」にやって参りました。
橿原神宮は神武天皇が畝傍橿原宮を造営した宮跡に建つ神社。
まさにここは神武天皇の聖地と言える場所でしょう。
橿原市に来たら絶対に外せない神社です。

お参りをしようとやってきた時には既に夕刻。
写真が暗っぽいですが、あまり気にしないでくださいね。

20201109_橿原神宮_001

20201109_橿原神宮_003

一の鳥居横のでっかい石燈籠。

20201109_橿原神宮_002

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表参道広場から西に向かって、大参道が真っすぐ延びています。
一の鳥居が建つ中央の主道の両側に橿の並木が続き、さらに
その両外側に副道が設けられています。進むこと100mで神橋
広場に到着。宮川にかかる神橋を渡ると二の鳥居があります。
参道はここから一線になり、南神門広場に至ります。

---------------(橿原神宮 公式サイトより)

参道を真っ直ぐ歩いて行くと、神橋と二の鳥居が。

20201109_橿原神宮_004

二の鳥居をくぐると、プランターに綺麗なシクラメンの花。
参道脇にずっと続いていて綺麗でした。

20201109_橿原神宮_005

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来た参道を振り返ったところ。

20201109_橿原神宮_008

手水舎から南神門にカメラを向けてみる。

20201109_橿原神宮_009

20201109_橿原神宮_010

20201109_橿原神宮_011

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 表参道を西に進むと南神門に達します。
手水を済ませ、南神門の石段を上がり神域に入ると、
背後に畝傍山を控えた雄大な社殿が眼前に開けます。
南神門は素木建の八脚門で屋根は切妻造の銅板葺です。

---------------(橿原神宮 公式サイトより)

20201109_橿原神宮_012

時間も時間でしたし、神武天皇量も遥拝したかったので、
ちと急いでまわる羽目になってしまいました。
時間があればもっとゆっくりしていきたかったのですが…

★その2に続く!(いよいよお参りです)
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2021年02月14日 (日) | 編集 |
2020.11.9 参拝 
「甘樫坐神社」にやって参りました。
随分前にココに来ようとした事があるのですが、
その時には場所がわからず、迷って辿り着けませんでした。
…が、今はタブレットを持ちながら何でも出来てしまう時代!
行きたかった神社にようやく行けたぞ♪
「こんな場所にあったのか!」と。

20201109_ 甘樫坐神社_001

20201109_ 甘樫坐神社_002

甘樫坐神社
https://asukamura.com/sightseeing/493/
主祭神/推古天皇
相殿/八幡宮・春日大明神・天照皇大神・八咫烏神・
   住吉大明神・熊野権現・八十禍津日神・大禍津日神・
   神直日神・大直日神
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大字豊浦、大字雷の氏神で延喜式内社。
主祭神に推古天皇をはじめ、八十禍津日神・大禍津日神・
神直日神・大直日神が祀られています。
(高市郡教育会(1971)『奈良縣高市郡神社誌』名著出版)
『日本書紀』によれば允恭天皇4年(415)、政治の乱れ
(氏姓制度の乱)を正そうと、古代の裁判である「盟神探湯」
が、この地で行われました。これは煮え立つ湯の中に手を
入れるもので、正しい者は火傷をしなかったといいます。
現在も毎年4月の第1日曜日に、神事として行われています。


---------------(旅する明日香ネットより)
※ 盟神探湯「クガタチ」「クカダチ」

20201109_ 甘樫坐神社_003

(;゚Д゚)「ひえぇ…煮え立つ湯の中に手を……」
SERUNA:「むかーしむかし、そんな裁判があったとさ」

20201109_ 甘樫坐神社_004

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盟神探湯 
 盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に
手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者にはヤケドあり」
という極めて荒い裁判の方法です。「日本書紀」によれば
允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の
前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えています。
 現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、
嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、
豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」としてその形を
保存・継承しています。
 「立石」と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほか、村内の岡・
上尾・立部・小原などにも残っています。

----------------(甘樫坐神社 案内板より)

(´・ω・`)「なんだか魔女裁判みたいだね」

勝手に高い氏を名乗る「成りすまし」が居たからとはいえ、
凄いやり方ッスな。まあ、この力技によって偽者が駆除された
みたいになったらしいけど…中にはきっと嘘を言っていない人
も居ただろうに、そういう人らはどうしたんだろう?
疑われたらもれなく火傷待ったなしだな。

20201109_ 甘樫坐神社_005

YouTubeより動画を拝借。
QRコードを読み込ませると出てくる動画です。

明 018盟神探湯神事 甘樫坐神社



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2021年02月12日 (金) | 編集 |
2020.11.9 参拝 
天川村の「大峯本宮 天河大辨財天社」にやって参りました。
この神社は日本五弁天のうちのひとつと言われております。
(黄金山大神・江島大神・竹生島大神・天川大神・厳島大神)
「天河大辨財天社=てんかわだいべんざいてんしゃ」
と読みますが、ざっくりと「天河神社」でも大丈夫です。

20201109_tenkawa_jinjya_001.jpg

天河大辨財天社の鳥居の横に鎮座するのは、お稲荷さん。

20201109_tenkawa_jinjya_002.jpg

鳥居をくぐって進みましょう。

20201109_tenkawa_jinjya_003.jpg

20201109_tenkawa_jinjya_004.jpg

一段高い場所にあるこちらは「五社殿」

20201109_tenkawa_jinjya_005.jpg

手前から奥に向かって…
・龍神大神(辨財天の化身なる龍神の神)
・大将軍大神(八ツつの杜の内森本神社御祭神)
・大日靈貴神(天照大御神の御別名)
・天神大神(菅原道真公)
・大地主大神(琵琶山の地主守神)

五社殿の前にあるのは「天石」

20201109_tenkawa_jinjya_006.jpg

20201109_tenkawa_jinjya_007.jpg

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天石の云われ 
 大峯弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ
坪内(壺中天)で蛇行し、その形は龍をしのばせる。
鎮守の杜、琵琶山の磐座に辨財天が鎮まり、古より多くの
歴史を有す。この地は「四石三水八ツの杜」と言われ、
 四つの天から降った石
 三つの湧き出る清流
 八つの杜
に囲まれし処とされ、神域をあらわす。その内三つの天石
(一つ石階段右・二つ五社殿前・三つ裏参道下行者堂左)
を境内に祀る。

------------(天河大辨財天社 境内案内板より)

こちらは石段の横にある天石。

20201109_tenkawa_jinjya_008.jpg

判りづらいと思いますが五社殿の場所から見上げると、
拝殿と御本殿が見えます。

20201109_tenkawa_jinjya_009.jpg

さて、お参りをしましょう。
(ここより上では撮影していませんので写真は無し)

20201109_tenkawa_jinjya_010.jpg

大峯本宮 天河大辨財天社
https://www.tenkawa-jinja.or.jp/
御祭神/市杵島姫命(辨財天様としても信仰されています)、
    熊野坐大神、吉野坐大神、南朝四代天皇の御霊、
    神代天之御中主神より百柱の神
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多門院日記に、
「天川開山ハ役行者 -マエ立チノ天女ハ
 高野 大清層都コレヲ作ラシメ給フ」という一節があります。
これは室町期の傑僧多門院英俊の天河詣での記録です。
天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔に
さかのぼります。龍、水分(みくまり)の信仰で代表され
古代民族信仰の発祥地とされる霊山大峯の開山が役行者に
よってなされたことは 周知のことです。その折大峯蔵王権現
に先立って勧請され、最高峰弥山の鎮守として祀られたのが
天河大辨財天の創まりです。
 その後、うまし国吉野をこよなくめでられた天武天皇の
御英断によって壺中天の故事にしたがい現在地、坪の内に社宇
が建立され、ついで吉野総社(吉野町史)としての社各も確立
しました。
 更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。
高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話しはすでに
明らかですが修行中最大の行場が天河社であったのです。
天河社には大師が唐から持ち帰られた密教法具「五テン鈴」
や、さきの多門院日記で紹介された「大師筆小法花経」、
又真言密教の真髄、両部習合を現す「あ字観碑」など弘法大師
にまつわる遺品が千二百年の星霜を越えてなお厳かに我々の心
を魅了します。冒頭で多門院英俊の言う「高野大清層都」とは
弘法大師のことなのです。

-----------------------(↓続く)

20201109_tenkawa_jinjya_011.jpg

----------------------------
 天河大辨財天社の由緒の中で、天河社が「大峯第一、
本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)
であったことを見おとすことは出来ません。
通常准三后宣下を受けられた宮家が門跡就任を奉告するための
入峯は宗門にとって最も重要大切の行事とされ、江戸期将軍の
参内に匹敵する権勢と格式をもっていました。この門跡入峯に
あたっての必修行程に門跡の天河社参籠がありました。
 このことは遠くその昔役の行者や空海の縁跡を慕い、
その法脈を受けついだ増誉、聖宝解脱など効験のきこえ高い、
大変偉い上人たちが峯中苦行をなしとげ天河社求聞持堂に参籠
されました。そして峯中の大秘法「柱源神法」にもとづく修法
の数々が確立されたのです。まさにその一瞬天河社縁起に言う
「日輪天女降臨の太柱が立つ」といわれます。
これが門跡参籠修行の謂です。
 文化元年七月十六日三宝院高演によって修せられた
「八字文殊法」などはまさしく門跡参籠修帰依の史実を裏書
するものです。
 また琵琶山の底つ磐根に立ちませる神と従神十五の督のこと
が修験の著名な文献「日本正法伝」天河祭祀のくだりに
日本辨財天勧請の創めとして掲載されています。これは天河
大辨財天が本邦弁才天の覚母であるということなのです。
そしてその加持法力は広大無辺十五の督によってことごとく
伝えられ、信心帰依の善男、善女へ授けられる福寿のこと
夢疑うなかれとされています。

------------(天河大辨財天社 公式サイトより)

お参りを済ませたら来た方とは反対側に出て、
階段を下りていきましょう。

20201109_tenkawa_jinjya_012.jpg

20201109_tenkawa_jinjya_013.jpg

下から見える御本殿。お山は禁足地となっています。

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【行者堂】
20201109_tenkawa_jinjya_016.jpg

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 天河神社にゆかりのある役行者様をお祀りしております。
拝殿奥の階段から降りてすぐにございます。

------------(天河大辨財天社 公式サイトより)

行者堂すぐ側にある天石。

20201109_tenkawa_jinjya_017.jpg

【南朝黒木御所跡】
神社からほんの少し歩いた場所にあります。

20201109_tenkawa_jinjya_018.jpg

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神社より東側に南朝黒木御所の史跡がございます。
 南北朝時代、天皇、親王より御下命を賜わった綸旨、
令旨が13通の天河に現存し天河郷民が南朝忠勤を尽くされた
ことが物語れます。
 史跡は石積みされた塀のみ残されていましたが、
昭和五十五年五月一日旧皇族賀陽殿下を御迎えし南北朝皇族
を始め将軍戦士敵味方の南朝北朝の霊的和解を祈念し南北朝
慰霊祭が斎行され、宝篋印塔が建立されました。今尚、
南朝北朝の御霊様を偲びゆかりある皆様がお詣りされます。

------------(天河大辨財天社 公式サイトより)

天河大辨財天社は、この他にも摂社末社がありますが、
そちらへはお参りをしていません。お時間のあるかたは是非
いかがでしょう。

SERUNA:「そういえば何でここに来たかったの?」
旦那:「天河伝説殺人事件…(´・ω・`)」
……角川文庫のやつか。ただしロケ地はここでは無いらしい。


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2021年02月11日 (木) | 編集 |
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奉納された酒樽。
万代老松は、吉野郡下市町下市の「藤村酒造」のお酒。
丹生は調べてみると神社オリジナルの御神酒のようですが…
どこのだろう。どなたか知ってる人がいればご教示下さい。

20201109_丹生川上神社_下社_019

【御神水 名水いのちの水】
20201109_丹生川上神社_下社_020

【御神木】
20201109_丹生川上神社_下社_021

カメラを上から下へ。

20201109_丹生川上神社_下社_022

20201109_丹生川上神社_下社_023

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欅に願いをこめて 
 昔から大木に神宿ると伝えられていますが、
正にこの欅、神宿るに相応しい大木、樹齢約五百年(推定)
株回り4.5メートル、樹高約三十メートル余、大昔より涸れた
ことのない御神水の恩恵を受け四方に伸びた枝に繁る若葉は、
神の恵みそのままに朝日に映えて神々しく輝き、秋の紅葉は
さながら錦絵のようで、見る人のこころを捕らえて離さない、
今、心静かに大木の幹に手を触れて生気を頂きながら、
何か一つだけ願いをかけてみよう、思わぬ御利益に預かる
ことができるかも。

----------(丹生川上神社・下社 境内案内板より)

【産霊石(むすび石)】
20201109_丹生川上神社_下社_024


【牛石(左)・蛙石(右)】
20201109_丹生川上神社_下社_025

【牛石】
20201109_丹生川上神社_下社_026

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牛石に思う 
 この石は形が牛の寝ているように見えるところから、
誰となく牛石と呼ぶようになった。この石は大正天皇御大典
の奉祝を祈念して丹生区より奉納されたものです。
当時これと言った道具もない時代に、これだけの石を人力だけ
で、そり台に乗せて川より引き上げ、若者の心意気と辛抱強さ
の象徴として此処まで持ち込んで下さった労苦に頭の下がる
思いがします。
 それから約一世紀に亘り辛抱強くここに座ったままの石で
ある。だから世の移り変わりの色々を知っている、ロマンに
満ちた石である。今改めて当時の人々の労苦に感謝しながら、
いつの世にあっても辛抱の大切さを教えてくれているこの石を
愛しく思い真心込めて優しく三回撫でてあげましょう。
思いがけない幸運に恵まれるかも。

----------(丹生川上神社・下社 境内案内板より)

【蛙石】
20201109_丹生川上神社_下社_027

----------------------------
 牛石の傍の石、この石が、なぜ牛石の傍に建っているのか
現在の氏子中で誰も知らず不思議に思っていた。
だが、最近その理由がわかった。
この石をじっと眺めていると蛙が立ち上がった姿に見える。
そこで、この石を蛙石と名付ける事にした。
牛は、じっくりと物事を見極めて粘り強く歩むことから、
人世も商売も牛歩のようにあれと言われている。
 一方蛙は瞬時に物を捉える瞬発力を持っている、すなわち、
静と動の対照的な性格を持つ石を並べて置いたのは、人生にも
物事を決めるとき、熟慮すべきか、即決すべきか、判断に迷う
ときがある、そんなとき、この二つの石に触れながら心静かに
考えてみよう。そのとき二つの石の精がきっと良い決断を
与えてくれるでしょう。
 牛の粘り強さと蛙の瞬発力を兼ね備えた人生であるために
何事も原点に帰る(蛙)気持ちこそが大切だとこの石が
教えてくれている。

----------(丹生川上神社・下社 境内案内板より)

最後、YouTubeから動画を拝借。
ニッポンアーカイブスさんのチャンネルから。


その他の丹生上川神社の記事をまだ見ていないかたはどうぞ。

水神宗舎「丹生上川神社」
1)http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3566.html
2)http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3567.html
丹生上川神社・上社
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3571.html


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