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定食屋さんに訪れるような感覚で見てもらえたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々、たまに飯テロ。ヲタクなネタから神社めぐりまでw
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2020年07月16日 (木) | 編集 |
検索でいきなりココに辿り着いた人はその1からどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3307.html

榊原照久公の墓を後ろから撮影。
さて、このお墓は一体どこを向いているでしょう?

20200612_駿河区_宝台院別院_009

20200612_駿河区_宝台院別院_010

察しの良いかたならもうおわかりだと思いますが、
このお墓は久能山東照宮の方向を向いているのです。
彼は亡くなってもなお、久能を見守り続けているのです。

20200612_駿河区_宝台院別院_011

【かくし坊の墓】
詳細は不明。調べたけどよくわかりませんでした…

20200612_駿河区_宝台院別院_012

20200612_駿河区_宝台院別院_013

【戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑】
かくし坊の墓の隣にあった彰義隊の慰霊碑。

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【榊原清政公之墓】
彰義隊の隣にあった清政公の墓。

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【榊原一族の墓地】

20200612_駿河区_宝台院別院_018

ちゃんとお参りをしてきましたが、誰かのお墓を写真に収める
というのは何だかとても妙な気持ちになりますね。(´・ω・`)

最後におまけ。
徳川家康は天ぷらを食べて食中毒で亡くなったという都市伝説
(信憑性は薄い)がございますが、榊原照久は家康が食した
その天ぷらになる食材を調達したかたなのだそうな。
https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/hamamatsu/ieyasutanakazyou/
(リンク先:静岡・浜松・伊豆情報局)


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こんな時期ですが県またぎの外出ができない人たちが少しでも
静岡県内を訪れた気分になってくれたら嬉しいです。
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テーマ:静岡県
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2020年07月15日 (水) | 編集 |
2020.6.12 参拝
浄土宗金米山「宝台院別院」にやって参りました。
「なんでまた珍しく神社でなく寺なんかに?」
…と旦那に聞くと、少し見たい所があるのだとかなんとか。

20200612_駿河区_宝台院別院_001

浄土宗金米山 宝台院別院
https://www.houdaiin.jp/branch_temple.html
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【榊原氏ゆかりの寺】
宝台院別院は、昔は照久寺と呼ばれていました。
久能山東照宮の西側に位置するこのお寺は、かつて徳川家康公
の側近く仕え、信頼が厚かった榊原照久の菩提寺です。
元和2年(1616)4月17日、家康公が駿府城で死去されると、
2代将軍秀忠公は直ちに久能山に東照宮を造営させました。
照久は初代神主に任命され、久能山東照宮の祭主を勤めました。

-------------------(公式サイトより)

旦那:「榊原照久って人のお墓があってね…」
SERUNA:「成る程、この上にあるのがそうか」

20200612_駿河区_宝台院別院_002

20200612_駿河区_宝台院別院_003
※他の一般のかたのお墓が写らないように配慮。

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20200612_駿河区_宝台院別院_005

【榊原氏墓群について】
----------------------------
[榊原氏と久能山城]
 榊原氏ははじめ伊勢国一志郡榊原村に住したことから榊原姓
を称するようになり、康政は、徳川家康の四天王の井伊直政、
酒井忠次、本田忠勝らとともに、家康の四天王の一人といわれ
ていた。康政の兄に清政がいた。清政も家康に仕えていたが、
その才能が認められ、家康の長子信康に付属させられていた。
信康が二俣城で、自刃した後、清政は主人を失い、上州館林に
いる康政のところで閑居していた。
ところが、慶長十一年(1606)十二月、武蔵国忍で鷹狩りを
していた家康は、清政を館林から呼び出し、駿河国久能山城は
要害の地であるからこれを守るように命じた。
清政は慶長十二年久能山城に赴き、廩米5000俵を与えられた。
久能山城に入った清政は間もなく病気になったので、
家康に従っていた榊原清久(のちの照久)は、父清政の看病を
するよう命じられ、久能にむかった。清政の病が小康状態と
なったので、清久は伏見にいる家康の所に戻ったが、
父の病の急変が伝えられ、再び暇を賜って久能に戻ったが、
同年五月に清政は死去した。
清久は、父親の死によって久能山城の城番が不在となるので、
新しい城番が決定すればただちに伏見に参上する旨を申し出た
が、父の後を継いで久能城の城番に当たるよう命ぜられた。

-----------------------(↓続く)

20200612_駿河区_宝台院別院_006

----------------------------
[従二位という高位に昇進]
 駿府に隠退した家康は、駿府城周辺で鷹狩りをした時に、
自ら清久の所領を定め有度郡内で1800石の采地を与えた。
その後、大坂夏・冬の陣に際し、清久は供奉しようと懇願した
けれども、久能山城は枢要の地であるので守衛に当たれという
厳令をうけ、久能山城を守っていた。家康の死後、その霊柩は
家康の遺言で久能山におさめることになった。この時榊原清久
は、祭祀のことを家康の遺言で掌るという光栄に浴していた。
これは清久の平生の奉仕を怠らなかったためであるという。
二代将軍秀忠は久能に詣でた時、榊原の邸に立ち寄り、数ある
家康の近臣の中からあえて清久を選び、東照神君の意のある所
を忘れず、今後ともけっして疎略なきよう命じた。元和三年
(1617)南光坊天海の葬地に関する巻き返しによって、
東照宮の霊枢は日光に遷された。この時清久もこれに従って
奉仕をした。
日光から帰途、伊豆北条の館で昼寝をしていたところ、
東照宮のお告げがあり、名を清久から照久に改めた。
元和四年五月十三日には従五位下に叙せられ内記と称すること
が許され、ついで同年六月には従四位下に昇進させられた。
昇進につぐ昇進をつづける照久は、元和八年(1622)六月
従二位に昇進した。
照久は同年八月上洛して昇殿が許され、これが済むと久能に
戻り、正保三年(1623)久能で卒し、照久自らが創建した
久能の照久寺(現宝台院別院)を葬地とした。

-----------------------(↓続く)

20200612_駿河区_宝台院別院_007

----------------------------
[榊原氏は交代寄合]
 照久の後を継いだのは照清であった。
照清は元和九年(1623)徳川秀忠・家光が上洛に際し久能に
詣たとき、はじめて御目見をした。さらに寛永十一年(1634)
には家光が将軍として上洛の途中久能山に参詣したが、この時
照清は伽役を命ぜられていたが、無官であったため従五位下に
叙任された。正保三年照久の遺跡を継いだが、あわせて東照宮
の祭主と久能山の警衛の二つを兼帯することとなった。
そのため、承応三年(1654)には与力六騎・同心三十人が
預けられたが、祭主と警衛の兼帯は負担であったらしく、
祭主を解任して欲しいとしばしば陳情していた。結局、
寛文四年(1664)五月に祭主は解任され、警衛をもっぱらと
するようになった。『家譜』には、「のち代々久能に住し、
これをつとむ」とる。江戸城に出仕したときは定鑑間に席が
定められていた。元禄十四年(1701)七月、照清が隠居すると
照清の孫喬長が後を継いだ。同年九月十四日には「はじめて
采地にゆくのいとまをたまふ。のち代々例とす」(『家譜』)
とあるように、榊原家が采地久能に住することになったのは、
久能山の警衛という職務からであろう。
以後、榊原家は交代寄合の旗本として大名に準じた扱いを
うけながら、久能に住しつづけるのであった。

----------------(榊原氏墓群 案内板より)

20200612_駿河区_宝台院別院_008

旦那:「…と、こういう人なんだよ」
SERUNA:「はえー」

お寺に来て歴史上の人物の墓参りに来てみたら、
久能山東照宮に関係があり、祭主だった人の墓に出会った。

旦那がtwitterに上げたもっと綺麗な写真はこちら。
https://mobile.twitter.com/tenta_mituike/status/1271361137070620672

おまけで過去ログをリンク;
家康公の長男信康が自刃した地「二俣城趾」の記事はこちら。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2084.html
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2085.html

もう一つ久能山東照宮についての記事を貼ろうと思ったら、
このブログを開設する以前の某SNSで書いていて
ココではひとつも書いていませんでした。
またいつか触れてみよう。

★その2に続く!
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3308.html


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2019年12月13日 (金) | 編集 |
2019.12.4 参拝 
上野恩賜公園をぶらりしていると、
「上野大佛」と書かれた看板があったので立ち寄ってみた。

20191204_上野大仏_001

20191204_上野大仏_002

ちょっと狭い境内。

20191204_上野大仏_003

20191204_上野大仏_004

20191204_上野大仏_005

大仏様の周りには絵馬が。
「落ちませんように」と学生さんたちが大仏様に願いながら
掛けていった絵馬です。困った時の「仏」頼み。

20191204_上野大仏_006

優しい顔をしていますね。

20191204_上野大仏_007

----------------------------
幾多の難を乗り越えた 上野大仏
 この大仏は寛永八年(1631)年、越後国村上城主であった
堀丹後守直寄公がこちらの高台に、戦乱に倒れた敵味方の冥福
を祈るために建立した「釈迦如来」です。京都・方広寺の大仏
に見立てられ、当初は漆喰で作られましたが、明暦・万治の頃
(1655〜60年)木食浄運という僧侶により高さ六メートルの
銅仏に改められました。
 また元禄十一(1698)年には輪王寺宮公弁法親王により
大仏殿が建立され、伽藍が整いました。しかし大仏は江戸時代
以来、地震や火災といった災難に何度も見舞われました。
幕末の上野戦争では辛くも被害を免れましたが、明治六年に
大仏殿が解体され、さらに大正十二年の関東大震災でついに
お顔が落ちてしまったのです。
 その後、寛永寺で保管された大仏は再建される計画も
ありましたが、残念ながら復元されることなく、お体は第二次
世界大戦時に提出されてしまいました。昭和四十七年春、再び
旧地に迎えられた大仏は、建立当初より大きくお姿を変えまし
たが「これ以上落ちない合格大仏」として広く信仰を集めて
います。


-----------------(上野大仏 案内板より)

元々はこんな姿だったそうです。

20191204_上野大仏_008


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2019年11月30日 (土) | 編集 |
2019.5.28 探訪 
吉備津神社から近い場所。
『福田海本部』の中に「鼻ぐり塚」という所がある。
福田海という所はお寺なのか何なのかがよくわからなかった
のでちょっと検索してみました。

----------------------------
http://kibinonakayama.com/中山散策/53-福田海/

明治33(1900)年、中山通幽(本名 多田盛太1862〜1936)
が、聖徳太子・役行者・僧行基の教えに基づいて開いた修験道
の寺院。通幽は当初小学校の教員をしていたが、修験道に強い
関心をもち大和の大峰山で修行し山伏になった。
「陰徳積善」を生涯の目標と定め、無縁仏の供養、霊場・旧跡
の修復活動に取り組んだ。昭和2(1927)年吉備津に帰郷し、
有木の青蓮寺を聖徳太子の四福田から「福田海」と名付け本拠地
とした。境内には不動岩と呼ばれる大岩があり、冬至の太陽を
拝む場所であったとする研究者もいる。


----------(吉備の中山を守る会公式サイトより)

修験道って事でOKだろうか。
開祖もその方面に関心を持ったと書いてあるし、
カテゴリも何にしようと迷ったけど、仏教カテゴリに振り分け
ることにした。

さて。
御祈祷料の100円を納めて護摩木に願いを書いて入場。
鼻ぐり塚は人間のお役に立つため働いた牛さんや、
人間の血肉となるため食用になった牛さんなどに感謝を捧げ、
供養をするための塚なのだそう。

20190528_鼻ぐり塚_001

20190528_鼻ぐり塚_002

到着しました。
こんもりしているコレが鼻ぐり塚です。

(=゚ω゚)ノ「先生ー、鼻ぐりってなんですかー?」
SERUNA:「牛さんの鼻についてる輪っかの事だよ」

20190528_鼻ぐり塚_003

20190528_鼻ぐり塚_004

----------------------------
鼻ぐり塚について
 かつてわが国の農村では、牛を飼い、田畑の耕作の労役等に
使用していました。牛は家族の一員のように大事に育てられ
ました。その際、牛の鼻に穴を穿ち、鼻輪(鼻環、鼻ぐり)
をはめ、それに縄を結んで使役していました。
やがて牛は飼い主の手をはなれて売りに出され、解体されて
肉となり皮となりその最後を迎えます。牛はその一生のすべて
を人間のために尽してきたといえましょう。
 こうした牛の恩恵に報いるため、死後残された鼻輪(鼻環、
鼻ぐり)を牛の唯一の形見として集めて浄祭することを福田海
開祖中山通幽師が発願されたのであります。
篤信の方々のお力により全国から鼻輪は収集され、
現在もその事業は続いています。鼻ぐり塚はもと円墳であり、
その墳丘上に鼻輪を積んでいます。石室内には真鍮製の鼻輪を
溶かして作った阿弥陀の宝号を刻印した金属板が安置されて
います。また、正面には馬頭観世音菩薩を祀っています。
昭和初年に塚が建立されて以来、現在までにおさめられた鼻輪
の数は七百万を超え、現在も畜類供養のため、春、畜魂祭を
行っており、年間数万個の鼻輪が塚におさめられています。

護摩木のお供え 
 護摩木は鼻ぐり塚正面にお供えください。
毎週日曜日、お供え頂きました護摩木にて、護摩を奉修し、
畜魂追福という陰徳積善のご縁につかれた皆様方の
家内円満 夫婦和合 良縁成就 子孫繁栄 身体健康
病気平穏 交通安全

をご祈念いたしております。

------------(福田海本部 境内案内の説明より)

ニッコリしている牛さんの銅像がありました。
なんだか顔の造形が妙に可愛いぞ。

20190528_鼻ぐり塚_005

かと思えば豚さんの銅像も。
供養しているのは牛さんだけではなさそうッスね。
しかしどうしてこんなに嫌そうな顔をしているのだろう?

20190528_鼻ぐり塚_006

入り口で願いを書いた護摩木はココに置いておきます。
目の前に馬頭観音の像が安置されていますね。
毎日人間のために働いてくれる家畜さんたち、ありがとう。
そして私たちのお口に入る牛さん豚さん、命をありがとう。

20190528_鼻ぐり塚_007

ちっこい牛さんの像が幾つも鎮座。

20190528_鼻ぐり塚_008

塚の周りをぐるっと回ってみましょう。

20190528_鼻ぐり塚_009

ぐるぐるー。

20190528_鼻ぐり塚_010

山盛りの鼻ぐり。

20190528_鼻ぐり塚_011

塚の左手側。
お地蔵さんが鼻ぐりを見つめるように立っています。

20190528_鼻ぐり塚_012

ちなみにですがこの鼻ぐり塚は「ウルトラマンエース
のロケ地となっていたそうで、16話の「夏の怪奇シリーズ
怪談・牛神男」に登場するようです。
タイトルで検索するとどこかに動画が転がっているかも?
ヒッピーの男が鼻ぐりを盗んで呪われ、怪獣カウラになる話。
最終的には人間に戻って改心するというお約束オチありの…
ヒッピー男のキャラがサイコ野郎すぎてもうね。(´Д` )
昔の特撮なので、ツッコミどころは多々あれど面白いですよ。
(先程の牛さんと豚さんの像はその当時からあるっぽい)


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