八岐大蛇のお話は、知らないという人はいないでしょう。
スサノオが大蛇に飲ませた『ハ塩折酒』が入っていた壷のうちの
ひとつが残されている場所があると言うのです。
取り敢えず、最初に吉田くんの動画で八岐大蛇退治のお話を。
なんかこのシリーズ、妙に好きなんだわw
舗装されている山道をずーっと車で走らせて、突き当たった場所に
この神社があります。徒歩だと軽くハイキングコースになるので、
歩くのがメンドクサイって人は車がオススメです。
さて…車を走らせていると所々に、
「悪い事をしてはいけないよ。壷神様が見ているぞ!」的な看板が。
この辺りではきっと子供に戒めをする時に「壷神様が見ているよ」
って教えるのでしょうね。「お天道様が見ているよ」ってのは昔から
よくある事なのでそんな感じで。写真に撮ってくれば良かったな。
到着してふと気が付くと、目の前はもう杉林だらけ。
花粉症なので、それ見ただけで軽く死ねるw

印瀬の壷神(ハ口神社)
http://www.unnan-kankou.jp/contents/orochi/9
御祭神:須佐之男命、櫛名田姫命
配祀祭神:国神社(脚名槌命、手名槌命)、八幡宮(誉田別命)
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現存する最古の棟札は宝暦八年修復(1758)のものであるが、
当社の建立年代は不明である。簸ノ川(斐伊川)の天が淵(湯村地旧)
に住む八岐の大蛇は、国神である脚名槌、手名槌夫婦の娘を年毎に一人ずつ
奪った。今年はついに八人目の末娘、稲田姫が奪われようとしていると
泣き悲しんでいた老夫婦から事情を聞かれた須佐之男命は、現社地に仮の館
を建てさせ、見事に大蛇を退治されたという。─八岐の大蛇退治の物語─
今境内に「壷神」として祀られてあるのは、その酒壷の一つである。
天正年代(1570)三沢城主為景の建立した国神社があったが後世荒廃し、
合殿として当社に合祀されている。古来より例祭には「八塩折の酒」
を作って献上していたが今は行われていない。
明治四十三年神社制度の改革により三社神社に合祀されていたが、
氏子(七戸)の熱心な願望により昭和二十一年御分霊を奉斉して飛地末社
となし昭和三十一年宗教法人として設立。元の社地に復旧したものである。
--------------------(ハ口神社 境内案内板より)

写真左側、囲ってあるその場所に壷が祀られているようです。
玉垣が新しくなっていたので、いかに氏子のみなさんに大事にされて
いるかがよくわかります。境内はキチンと手入れもされていました。
さて、この壷神様。どうしてこういったカタチで祀られているのか、
どのくらいの大きさなのかが、更に案内板に書かれていましたので
ここに転載しておきます。
--------------------------------ー
【壷神由緒】 「壷」口経四寸五分・腹経六寸五分・深さ五寸。
神代の昔、須佐之男命が八岐の大蛇を退治なされる時、
脚名槌、手名槌の夫婦に「汝等は八塩折の酒を醸り、垣を造り廻らし、
その垣に八門を作り、門毎に八桟敷を結い、その桟敷毎に酒船を置きて
船毎にその八塩折の酒を盛りて待ちてよ」と仰せられた。その時の酒壷
の一つを祀ったものである。昔土民がこの壷に触れたところ、
俄に天はかきくもり山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて
神に祈ったところようやく鎮まったという。村人たちは人の手に触れる
ことを恐れ多くの石で壷をおおい、玉垣で囲み、注連縄をめぐらし、
昔のままの姿で昔のままの場所に安置することにつとめ現在にいたって
いるものである。
毎年旧六月晦日の夕刻には氏子全員がにぎやかに参拝し、昔ながらの
八本の幣と供物を献じて壷神祭を続けている。昔から「印瀬の壷神さん」
として広く知られている。
------------------------(境内案内板より)
※上の部分が切れて見えないけれど、八本の御幣が立っている。

八岐大蛇の物語を聞く限りでは、大蛇が飲む酒が入っていた位です
から、かなり大きなものだと思って勝手に想像をしていましたが、
御由緒に書いてあるものは普通のサイズの壷でビックリ。
…というか冷静になって考えると、あくまで大蛇は斐伊川を神格化
した物なので本当に居たわけではないのですよねw
ひょっとしたらこの壷、遥かむかしに斐伊川の氾濫を抑えるための、
何らかの神事に使われていた物なのかも知れない…とかね。
色々と想像してみると面白いです。(記事:©SERUNA)
『ハ塩折酒』を作って献上していた時代もあるようですが、
そのお酒、どんな味だったんだろう?
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続いては『河邊神社』へ向かいます。
ここはただ、何となく参拝に立ち寄ってみたところ。
一緒にいた旦那がすぐ足元に気付いたんですが、
神社のそばにあったマンホールの絵が可愛かったのでまずは一枚。
誰もあまり見ないだろうけれど、こういう所に注目してみると
地方ローカルなものに出会えたりして面白いw
「マンホール」「マンホールの蓋」と検索するとマニアックな
世界に出会えちゃったりするかも。

河邊神社
http://www.unnan-kankou.jp/contents/orochi/17
御祭神:久志伊奈太美等與麻奴良比賣命(奇稲田媛命)
配祀:清之湯山主三名狭漏彦八島篠命(スサノオとクシナダの御子)
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当社は、延喜式神名帳及び出雲風土記所載の式内社としての
古社である。奇稲田媛命、御子を生みまさむと此の處に至りて
「いと久麻久麻しき谷なり」と宮居し給うと、天平五年(733)
の古文書にあり、往時が偲ばれる。当時は、下熊谷の境の
烏帽子山の麓、字松林の地に鎮座せしも後に中央の舟津の現在地
に移転している。(嘉祥四年(851)に神階六位上に叙せられ、
明治五年に村社に列せられた)
往時は、境内二十五間四方本殿より鳥居までの参道の長さ
約六十四間(115米)あったが、明治六年の洪水により境内流出
堤防構築等により、風致大いに変わった。明治三十八年上熊谷
地区に鎮座せる正八幡宮、海原神社を当地に合祀、明治四十四年
に並列的に建てられていた三神社を現在の相殿として。その後、
老朽化し、昭和四十二年十一月遷宮を執行し今日に至っている。
----------------(河邉神社 境内案内板より)

出雲国風土記の『飯石(いひし)の郡』に書かれてあります。
クシナダが妊娠をしてお産をするときになり、
産所を探しここまでやって来ました。そしてみことのりをし、
「ここは大層久麻久麻しい谷(隠れ篭った谷)なり」と喜んで
仰せられ、この場所を御産所とされたのです。今でも産湯に使う
水を取ったとされる井戸の事を「熊谷さん」と呼ぶそうで、
地名のいわれにもなっています。

神社の御由緒を読むと元々神社があった場所は、
「下熊谷の境の烏帽子山の麓」…と書かれていますね。
どの辺になるのかはわかりませんが、熊谷さんと言われる井戸って
まだ残されているのでしょうか。場所がわかれば元あった場所へも
行ってみたかったです。(記事:©SERUNA)
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