明治の文豪『小泉八雲』は、焼津の海が甚く気に入り、
夏になると焼津に避暑に訪れては乙吉さんの家に滞在していました。
(家族連れで6回。1回の滞在で1〜2か月だったそうです)
参照→ https://www.city.yaizu.lg.jp/yaizu-yakumo/at-yaizu.html
幾つかの神社やお寺は八雲さんのお散歩コースでしたが、
その中のひとつ、熊野神社もまた、彼の散歩コースのひとつでありました。
現在は周辺の開発も進んで随分とスッキリした神社となってしまいましたが、
ずっとずっと昔の熊野神社の周りはまだ田んぼだらけで、鳥居のある場所
には兜松、境内は木々が鬱蒼と生い茂っているような状況でした。
鳥居から真っ直ぐ参道が伸び、その脇には松の木が。

下の写真は神社の二の鳥居。

神社の境内にはこれでもかというくらいに、
記紀で語られる伊邪那美命についての説明書きがされていました。
行くとわかるのですが、とにかくパワスポ押しな文章が躍り出ています。
個人的には「パワースポット」という言葉は神社には軽すぎてあまり
好きではないのですが、流行りの言葉で参拝者を増やしていこう
という宮司さんの努力のあとが見てとれます。

熊野神社
御祭神:伊邪那美命、速玉之男命、事解之男命
----------------------------------
源長宗第二十六代の後胤長谷川元長大永六年(1526)紀伊にのがれ
熊野三社を勧請して帰り社殿を造営して奉齋以来この神を産土神と仰ぐ。
文化二年二月火災に罹り、同年十二月に再建。境内社那閉神社・津島神社
・宗像神社・稲荷社・英霊を祀る小川御霊神社を祀る。
明治六年二月村社に列格。現在五等級社。
---------------------(熊野神社 境内案内板より)
ここは室町時代末期に建立された神社ですが、
現在の社殿は今から200年前に建て直されたものとの事です。
東小川地区の氏神様、そして鎮守の杜として今日までこの辺の氏子
の人々から崇められてきました。
…さて、本殿裏手へまわってみましょう。

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小泉八雲一行、熊野神社でアッチッチ…
明治35年夏(約110年前)八雲は焼津神社からお地蔵さん(海蔵寺)
へ行く途中、熊野神社へ立ち寄りました。その頃の熊野神社はジメジメ
とした土地で、足の踏み入れ場もないほどに熊笹と雑草が生い茂り、
ようやく5.6寸幅に社殿を巡る径が残されている有様でした。
篠竹でくもの巣を打ち払いながら乙吉が先頭に立ち、その後ろを八雲、
長男一雄、書生の奥村が続きました。社殿の真後ろまで来たとき、
乙吉と奥村がアッチッチと顔色を変えて飛び退きました。
しかし八雲と一雄には何も感じられませんでした。不思議に思った八雲
は周囲をしきりに探索しましたが、結局何も発見できませんでした。
焼津には地下にメタンガスがあると言われており、
あるいはそのメタンガスが地上に出て来て燃えたのかもしれない。
乙吉はこの時のことを思い出しては「あれは魔だノオ」と怖ろしがって
いました。
---------------------(熊野神社 境内案内板より)
最近作られた物ですけれども、小泉八雲のエピソードが書かれた
説明文と共にこんな感じに整備された場所があります。
(円形に作られた形状に意味は無いと思われw)

ここで面白いのが、このエピソードなんですよね。
私が注目したのがこの天然ガスが燃えていたかも知れないという記述。
今はわかりませんけれども、ずっと昔の焼津はこの天然ガスが豊富で、
古代には、このガスが地上に噴出して常に燃えていたのだそうです。
なので記紀に伝えられるヤマトタケルの焼津での物語は、
もしかしたらこういった自然現象が物語に結びつけられていたのかも
…という捉え方も出来るのですよね。彼がこの辺の豪族と戦っていた
事も確かなのでしょうけれど、あくまで「もうひとつの説」として。
トンデモで無い限りは「何が正しくて、何が間違っている」という物
は無いので「もしかしたらそういう事もあるかもね」とあれこれ
考えるのもなかなか楽しいものですよ♪ (´∀ `*)(記事:©SERUNA)
【余談です】
焼津では温泉も湧き出していますw
https://www.city.yaizu.lg.jp/g05-002/kankou_spa.html
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焼津市の町の中にとある小さな神社がございます。御祭神は天照大御神。
ココにはこんな物語が残されているので紹介したいと思います。
※私が参拝したのは三ケ名にある『神明宮』。
そして三ケ名と隣り合わせの場所に五ケ堀之内という場所があるんですが、
物語に出てくる神明宮はもしかしたら五ケ堀之内にある『伊勢神明宮』
の方かも知れません(GoogleMapのストリートビューで確認したところ、
神明宮よりも小さいものでした)。場所を間違えていたらすいません。

神明宮
http://shizuoka-jinjacho.or.jp/shokai/jinja.php?id=4407037
御祭神:天照大御神
----------------------------------
字伊勢島(あざいせじま)と伊勢神明宮
それは平安の終わり頃の物語です。大井川が自由に流れ、
入江もあちこちに見えて潮の満ち引きも豊かな頃のことでした。
三重県の伊勢神宮では、新しい年におまつりするお札を東国へ配るため、
毎年船を使って運んでいました。ところがある年、この船が駿河湾沖で
津波に巻き込まれてしまい、大きなうねりと共に三ケ名の岸辺に乗り上げ
てしまいました。伊勢神宮のお札を運ぶ恐れ多い船と知ったっ村の人々は
身を清め、お札の陸揚げを手伝いました。村役たちはさっそく伊勢神宮
へと旅立ち、事の次第をお知らせしました。
この手柄により、伊勢神宮からは直々におほめをいただき、これより後、
この村には伊勢神宮の祭神、天照大御神の分霊をおまつりすること、
そしてこの地を「伊勢島」と命名するようにとの知らせがありました。
村人たちはたいへんに喜び、みんなで相談して、社を作ることにしました。
こうして神明宮は伊勢島の地区におまつりされ、以来、地区の人から
信仰を集めるようになりました。今ではこの辺りは「五ケ堀之内」と
言われていますが、明治時代、字名(あざめい)を改める以前は、
「小柳津村柳新屋郷伊勢島」と呼ばれていました。
-------------(企画展「やいづの昔ばなし」冊子より抜粋)

以前ちょっと調べた情報なんですけれど…
色々と諸説あるようですが、その内の一説によると、
現在の地名『五ケ堀之内』という名前は津波が由来になっている物だそうな。
大地震により、この辺りを襲った津波で堀が五つ出来た事から「五ケ堀」。
うぉぉ!怖えぇー! (((;゚Д゚))))))(記事:©SERUNA)
焼津と海は切っても離せません。こういった物語も残されているくらい、
(ちなみに他にもまだ、焼津には津波に纏わる昔ばなしが残されています)
歴史的に見ても津波からは逃げられない問題だったりするのかもなぁ…
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「神社の歴史や伝統を多くの人に知ってもらいたい」
という想いがあって企画されたイベントなのですが、
今年で第6回になるのだそうです。
規模は小さいですが、毎年境内に小さなお店が並びます。
--------------------------
焼津神社deマルシェ
http://ganbarouyaizu.eshizuoka.jp
焼津神社
http://yaizujinja.or.jp
日時/ 2014年10月19日(日)
時間/ 9:30〜14:30 雨天縮小開催
場所/ 焼津神社境内・月冰殿
出店予定/ 焼き菓子・お花・魚河岸グッズ・カフェ・
ところてん・ミニチュアカー…その他多数予定。
駐車場の用意はありません。周辺の路上駐車も固くお断り。
各自ゴミは持ち帰りでお願い致します。
《焼津神社より》
『撤饌』をお領ちします。焼津神社の神饌田で収穫して、
神様にお供えし終えたお米です。※なくなり次第終了。
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お時間ある方は是非。
私も行ってみようと思っています♪( ^ω^ )

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藤枝市にある小さな神社です。
町から外れた田舎な場所(失礼)にあるので恐らく神社に
あまり興味のない人だと、鳥居をチラッと見ただけで
素通りをしてしまうかも知れません。
櫻宮神社はウチの旦那がずっと気になっていた神社だった
ようで「ちょっと行ってみようか」という事に。
いつもでしたら、あらかた調べてから参拝に行くんですが、
今回は事前に知識を入れずに、ぶらっと寄ってみる…
そんな感じです。

旦那:「ちょっと雰囲気が良さげな所でしょ」
SERUNA:「おぉー、綺麗だねぇ」
【櫻宮神社鳥居について】----------------
二つ池の桜並木の入り口にある石造の鳥居は、元々、
田沼意次(老中)が明治四年(1767)に二万石の初代相良
(現在の牧之原市相良)藩主となり築城した相良城内にあった
荒神社(地の神)の鳥居でした。
意次が、次の老中松平定信により失脚させられた際、
相良城は徹底的に破壊され、神社の鳥居までもが競売にかけられ、
櫻宮神社に移されました。鳥居の柱には、天明二年(1782)
壬寅、春二月上院(上旬)四日の文字が彫られています。
--------------(櫻宮神社 境内案内板より)
鳥居をくぐって参道左手側には池いっぱいに広がった蓮が。
彼岸花も咲いて綺麗です。季節を感じますね。
彼岸花はどうしても「死」に纏わるイメージばかりが付いて
まわりますけど、私は好きです。そしてこの彼岸花…
どうしてよく田んぼのあぜ道やお墓の周りに咲いているのか
という事を調べてみるとちょっと興味深い話がありますので
気になる人は各自で検索を。(´ ∀ ` )ノ

下の写真は参道右手の池。こちら側には何も無いです。
若い兄ちゃんが釣りをしていたけど濁った池で一体
何が釣れるんだろうか?

彼岸花を見ると子供の頃を思い出します。
幼稚園くらいの頃、この時期になると家の近くに彼岸花が
いっぱい咲いていて彼岸花で作る首飾りを母に教えてもらい、
一生懸命作って首からかけてはしゃいだ思い出が…
私にもそんな可愛い子供時代があったんですけど今は(以下略)

櫻宮神社
http://fujiedajuku.jp/html/shrine_10.html
御祭神:安閑天皇
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櫻宮神社は天正十六年(1588)に村社として建立されました。
慶長十三年(1608)に本殿が建立され、祭神として第二十七代
安閑天皇を祭祀しています。安閑天皇は日本に仏教が伝来
(538年・552年説)した頃の天皇です。
櫻宮神社は、元は蔵王権現と呼ばれていました。権現とは
「権の姿で現れた神仏」の意味で、釈迦如来・千手観音・
弥勒菩薩の三尊が合体したものとされています。
安閑天皇と蔵王権現の関係は、神仏習合の説教では蔵王権現が
安閑天皇と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離の際
に櫻宮神社も祭神を安閑天皇としました。
明治八年に蔵王権現を櫻宮神社に改称し、村社に列せられ
ました。毎年十月十六日を祭日としていましたが、
現在は十月の第二日曜日(体育の日)に祭典を行っています。
--------------(櫻宮神社 境内案内板より)
安閑天皇を御祭神とした神社はそんなに珍しいものでは
無いらしい。「あれれ?御本殿はどこ?」と思ったら、
拝殿裏手の石段を登った所にありました。
こちらの写真はひとつ目の石段を登ったところ。

ここでも直接参拝できるようになっています。
写真には収めていませんが本殿左手にはお稲荷さんの祠が。
神使の置物が壊れていたのがちょっと可哀想でした。
(記事:©SERUNA)
次は桜の季節に参拝したいなぁ。(´∀ `*)
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タケミカヅチとタケミナカタに引き続き、日本の神様シリーズで、
古事記に登場する『須佐之男命』と『大国主神』。
大国主の正妻はスセリビメ。
そのスセリビメのお父さんがスサノオさん。
スサノオは、大国主から見たらいわゆる「お義父さん」。
いろんな意味で凄いですよねぇ「嫁のお父さんがスサノオ」ってw

古事記の物語の中でスサノオは、娘の連れて来た男(大国主)に、
あれこれ試練を与えるのですが…その試し方がハンパ無い。
ヘタしたら死んじゃうかもっていうレベルの試練。
その凄まじいほど鬼畜なスサノオさんのテストはスセリビメや
ネズミに助けられて何とか乗り越える事が出来るんですけれどね。
あれこれあって最終的に大国主はスサノオに認められるという。
…さあ、詳しい内容が気になる人は古事記を読むんだ!
出雲大社には大国主の御本殿がある背後に、
スサノオの社殿である『素鵞社』があります。
(タキリビメを含めた)自分の娘と大国主をじっと静かに
見守っているかのような感じがするんですよね。
あと私の勝手な妄想ですが、出雲大社の中で大国主と
スサノオ義父さんで仲良く酒を酌み交わしているイメージが
あります。いや、酌み交わすってよりもスサノオが大国主に
「ちょっと今晩も酒に付き合え」みたいな。
「えぇーまたですかお義父さん」って渋々付き合う感じで。
めちゃくちゃいい関係を築いていそう。(´∀ ` )
スサノオ:「ほらもっと飲めー」
大国主:「すいません、私もうこれ以上…」
スサノオ:「何だつまらんな、それでも男か」
大国主:「えぇー… (´・ω・`)」
それにしても改めて見てみると描き直したい箇所がチラホラ。
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