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定食屋さんに訪れるような感覚で見て戴けたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々、たまに飯テロ。ヲタクなネタから神社めぐりまで。お好きな記事をブログカテゴリからお選び下さい。
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2016年08月18日 (木) | 編集 |
お腹が空いたので、『道の駅 河野』にて車を駐めて、
事前に買っておいた焼鯖寿しを車内で食らう。
その前に外の空気でも吸いましょうか。

……あ、いけね。道の駅を撮り忘れたよ。(´・ω・`)

こっから見える景色でも載せておこうか。
向かい側に立石岬。『高速増殖炉 もんじゅ』がある方角です。

20151003_michi_kouno_001.jpg

もんじゅといえば「落下した炉内中継装置を取り出す」という、
命がけのUFOキャッチャーを2011年にやってのけたんだよな。
凄いよなぁ、流石だよなぁ、日本の技術と作業員。

前にも言いましたが、原発についてですが私は中立派です。
「自然を崇拝する神道的には相容れないもの」と考えますので、
個人的に思うことはあろいろありますけれど…
(神をも超える領域を、人間がいじっていいものなのかとか)
しかし、共存していかねばいけない物なのでしょうかね?
自然を利用したエネルギーが一番だと思うのですが。
(ただし自然を壊し、景観を損なう太陽光パネルには反対)
「保守派にもこういう考え方の人もいますよ」って事で一応。
おそらく、神社の宮司様も同じことを仰ると思います。

20151003_michi_kouno_002.jpg

……あぁ、話脱線して申し訳ない。

さてさて、買っておいた『越前若狭 焼鯖寿し』
「福井に来ておいて、どうして普通の鯖寿司食わないんだ」
ってツッコミが入ると思いますが、私、シメサバが苦手なので。
(当ったトラウマじゃなくて、口いっぱい広がる海の味がダメ。
よって生牡蠣とかも超苦手なんです。火を通せばオッケー)
焼いた鯖なら大好物だしナンボでも食いますよっと。

20151003_yakisabazushi_001.jpg

『一乃松』の焼鯖寿し。
http://ichinomatsu.shop-pro.jp/
残念ながら国産ではなく、ノルゥエー産でございます。
旦那と半分こで食べましたよ。

20151003_yakisabazushi_002.jpg

秘伝のタレに漬け込まれ、丁寧に焼かれた鯖。
一口食べるたびに焼鯖の芳ばしさが口の中に広がります。
そして福井産の米を使用したシャリと焼鯖の間に挟まれたガリが
焼鯖との相性バッチリ。ガリが挟まっていることによって、
後味を良くしてくれているようです。

福井の焼き鯖寿司は美味しいなぁ。
きっとこれを超える焼鯖寿司のお弁当が他にもあるに違いない!
「こいつもオススメだから食べてみてくれ」ってのがあったら
誰か教えて下さい。

美味しかったです。御馳走様でした♪


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2016年08月18日 (木) | 編集 |
2015.10.3 探訪 
金崎宮を参拝した後は、金ヶ崎城跡を散策。
細かい歴史については長くなるし面倒なので各自ググるように。
あと、ついでにこいつも貼っておきます。
http://kanegasakigu.jp/rekishi/

20151003_kanegasaki_c_001.jpg

城跡散策は、金崎宮を出てからすぐに出来ますよ。

20151003_kanegasaki_c_002.jpg

20151003_kanegasaki_c_003.jpg

-----------------------------
金ヶ崎の退き口
 敦賀市は三方を山に囲まれ、一方を海に面した盆地のような
場所である。
 元亀元年(1570)4月、織田信長は朝倉義景討伐の軍を起こし
て徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等とともに敦賀に進軍。
手筒山城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、
近江浅井氏が朝倉氏に味方する。
 信長は福井方面(手筒山の奥)からの朝倉氏の援軍と滋賀県
方面からの浅井軍に挟まれ窮地に陥り急遽総退却。(信長の退路
など不明な事も多いが、信長軍は関峠を通り若狭方面に退却した
と考えられる)
 この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を
救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられ、
後にこの戦いを「金ヶ崎の退き口」と称される。
 また信長の妹、お市の方は危機を知らせるため両端を紐で
結んだ袋に小豆を入れ陣中に届けたという逸話も残している。
 金崎宮ではこの逸話をもとに「小豆袋守(難関突破守)」が
授与されているが、ここからの景色は「袋のねずみ」のような
信長の厳しい状況が感じられるのではなかろうか。
(眼下の線路や公園などは当時海でした)

-----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)

20151003_kanegasaki_c_004.jpg

鴎ヶ崎から見える景色。

20151003_kanegasaki_c_005.jpg

-----------------------------
 明治42年9月大正天皇(当時皇太子)北陸三県行啓の折と、
昭和8年10月に聖上陛下の敦賀に行幸の折にもここにおいて、
小憩され港湾内を眺望されたところである。


-----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)

尊良親王御墓所見込地

20151003_kanegasaki_c_006.jpg

20151003_kanegasaki_c_007.jpg

-----------------------------
 安政年間(江戸時代末期)この地付近より経塚が発見され、
石室からいずれも銅製の経筒・円鏡・椀(三点とも敦賀市指定
文化財・金崎宮所蔵)が出土した。当時は殆ど話題にならず、
遺物は埋め戻されたという。
明治維新後、建武中興に関する史実の全国的な見直しが行われ、
湊川神社や鎌倉宮、藤島神社などが創建された。
 当地においても、金崎城合戦より五百五十余年を経た
明二十三年、金崎宮が官幣中社に列せられ、同二十六年に社殿
が竣工、鎮座祭が斎行されたが、それに先立つ、同九年
経塚出土品からこの地を尊良親王御墓所と解し「墓所見込地」
の碑が建てられた。
 しかし、他に立証する史料に乏しく、また京都市内(左京区
南禅寺下河原町・永観堂そば)に同親王の御墓所が指定されて
いることもあって、現在では親王御台臨、自刀の地として大切
に保存されている。

-----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)

月見御殿
ここ、月見御殿から見える景色。
眼下には青く美しい福浦湾が広がります。
敦賀新港からは、フェリーが出ているようですよ♪
http://www.snf.jp/embark/turuga.html

20151003_kanegasaki_c_008.jpg

-----------------------------
 この付近は金ヶ崎の最高地(海抜86メートル)で月見崎
といい通称月見御殿と呼んでいて、南北朝時代の金ヶ崎城の本丸
跡といい、戦国時代などにも武将が月見をしたと伝えている。


-----------------(金ヶ崎城跡 案内板より)

右手に見えますのが、敦賀火力発電所でございます。

20151003_kanegasaki_c_009.jpg

左下に目を下ろすと『絹掛ノ崎』が見えます。

20151003_kanegasaki_c_010.jpg

金崎古戦場の石碑。

20151003_kanegasaki_c_011.jpg

他にも『二の城戸』や『三の城戸』なども撮りましたけれど
似たような景色で、読む人もつまらないかなーと思いましたので
省略します。気になった人は是非、金ヶ崎城跡まで足を運び、
その目で確認してみて下さいw


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2016年08月18日 (木) | 編集 |
2015.10.3 参拝 
去年参拝した記録をようやくアップ。
以前福井へ行った時に、旦那が気になっていた『金崎宮』。
この日ようやく足を運ぶ事ができました。駐車場を見つけるのに
ちょっとウロウロしてしまいましたが何とか到着。

20151003_kanegasaki_g_001.jpg

石段の途中右手に愛宕神社があります。

20151003_kanegasaki_g_002.jpg

20151003_kanegasaki_g_003.jpg

そこを通り過ぎ更に上へ。
鳥居が見えてきたら金崎宮の社殿はすぐですよ。

20151003_kanegasaki_g_005.jpg

20151003_kanegasaki_g_004.jpg

20151003_kanegasaki_g_006.jpg

20151003_kanegasaki_g_007.jpg

20151003_kanegasaki_g_008.jpg

金崎宮
http://kanegasakigu.jp/
本宮 金崎宮御祭神:
尊良親王(後醍醐天皇一の宮)、恒良親王(後醍醐天皇皇太子)
-----------------------------
 延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に
攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられたが、
同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸される
ことになり、その際天皇は別に新田義貞に命じ、
尊良親王・恒良親王を 奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために
下向せしめられた。

新田義貞一行は雪中の木の芽峠を越えて敦賀に着き、氣比神宮
の大宮司氣比氏治に迎えられその居城、金ヶ崎城に入った。
一方足利尊氏は高師泰を総大将として兵六万余もって陸海より
金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城の瓜生保、里見時成等兵
五千余も金ヶ崎の急を救わんとしたが、迎撃に遭い、
保、時成等戦死、3月6日遂に落城、尊良親王は新田義顕
(新田義貞嫡子)以下将士三百余人と共に亡くなられた。
尊良親王御年27歳、義顕18歳であったと伝えられる。

恒良親王は、氣比氏治が子息斎晴によって脱出されたが、
後に捕らえられて京都に幽閉され、延元3年4月13日毒薬を
盛られて亡くなられた。御年15歳であったという。

 明治の御代に至り、当地敦賀の人々の熱烈なる請願により、
明治23年9月尊良親王を御祭神とし、宮号を金崎宮として官幣
中社に加列せらるる旨仰出された。同25年11月には恒良親王を
本宮に合祀され、同26年5月5日勅使参向せしめられ鎮座祭及び
奉告祭を執行、翌6、7日両日に奉祝祭を執行し、以来毎年6日
をもって例祭日と定められた。

しかし、同36年3月、町内よりの出火により本殿以下三棟を焼失、
日露戦争後の同39年4月に正還宮再建されたが、この時御本殿
は現在の地に移され、建築様式も流造より神明造に改められた。

昭和57年本殿等の破損著しく改築、桧皮葺の本殿、
瓦葺の拝殿等が銅版葺に改められ、現在に至る。

-----------------(金崎宮 公式サイトより)

下の写真は絹掛神社。

20151003_kanegasaki_g_009.jpg

-----------------------------
摂社 絹掛神社
 延元二年(1337)三月六日金ヶ崎城の落城の際、
尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刀した。
祭神はその人達である。氏名の判名する者僅かに十数名、
大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、敦賀を中心とする
北陸地方からの無名戦士も少なくはない。籠城五ヶ月糧食全く
尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った壮烈な敢闘精神は、
日本武士道の華と謳われた。


------------------(金崎宮 境内案内より)

金崎宮は「恋の宮」と言われており、
桜咲く四月には『花換まつり』という行事が行われます。
http://kanegasakigu.jp/hanakae/

何ともまあ「御馳走様です」なイベントではありますが、
春になったら好きな人を誘って、金崎宮へお出掛けしてみては
いかがでしょう。お友達同士で交換しても良いそうですよ。

YouTubeより、お祭りの動画を拝借。


SERUNA:「福娘かわええッス。花換えましょう、ハァハァ…」
(=゚ω゚)ノ 「おまわりさーん、ここに変な人がいまーす」

★金ヶ崎城跡に続く!
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1325.html


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2016年08月18日 (木) | 編集 |
いつ始まったか、どこの国から始まったかは知らないけれど、
(海外の選手もやるらしいですし、一説によるとどうやら日本
から始まったものではないみたいです)オリンピックなどの試合
でメダルを取った選手がカメラに向けてメダルを噛む仕草、
正直意味がわからんのですが、あれ、何でやってるんですか?
普通にメダル持って、ニッコリ笑顔じゃダメなんですか?
(噛まずにニッコリの方が素敵だと思うんだが)

選手はカメラマンにリクエストされても拒否っていいんじゃね?
汚いとかそういうのは置いといて、ただただ疑問なんですけど。
あれこそ悪しき慣習だと思うんですが、如何?
誰かどっかで止めた方がいいんじゃね?


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