FC2ブログ
定食屋さんに訪れるような感覚で見てもらえたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々。ヲタクなネタから神社めぐりまでw
| Login |
2016年12月02日 (金) | 編集 |
検索でいきなりこの記事に辿り着いて、
まだその1を読んでいない人はこちらからご覧ください。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1464.html

『茶亭跡』

20151013_kyuuenji_007.jpg

下の写真右手側が、茶亭があった場所のようです。

20151013_kyuuenji_008.jpg

-------------------------------
 慶長五年(1600)掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、
大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
 関ヶ原の合戦の後、山内一豊は功績を認められ、土佐二十万石に
栄転した。


-------------------(久延寺 境内案内板より)

『徳川家康公御手植五葉松』

20151013_kyuuenji_009.jpg

二代目の松があるはずですが…なんだかよくわからなかった。

20151013_kyuuenji_010.jpg

久延寺を訪れた印象としては、人がいる気配が全くしなくて、
申し訳ないけれど綺麗な状態を保っているようには見えなかった。
お庭もちょっと荒れかけているような感じで…
(写真はなるべく綺麗に写るように努力したんですがw)
歴史あるお寺のようですが、この状態は勿体無いッスね。

……さて、お寺の外に出ました。
寺の前の少し広くなった場所に『接待茶屋跡』があります。

20151013_kyuuenji_011.jpg

-------------------------------
 鎌倉時代・永仁年間(1300年頃)から旅人の求めに応じて茶等を
接待し、旅人の憩いの場となっていたといわれる。
芭蕉の「馬にねて残夢月遠し茶のけむり」の句もこの辺りで詠まれた
ものであろう。


------------------------(案内板より)

『東海便覧図略』

20151013_kyuuenji_012.jpg

-------------------------------
 天明六年(1786)に尾張藩士高力種信が東海道の風物を描いた
ものの一枚である。久延寺とその西に並ぶ飴屋などが描かれていて、
当時の風景を知ることができる


---------------(久延寺 境内案内板より一部抜粋)

東海便覧図略と同じ方向にカメラを向けるとこんな感じ。
写真右手側に接待茶屋跡。奥に向かって左の方向に道が続きます。

20151013_kyuuenji_013.jpg

寺の隣には『扇屋』という飴屋さんがあります。小泉屋と同じ子育飴
が作られていますが、宝永年間創業扇屋の子育飴が元祖のようです。
(砂糖を使わず、昔からの製法で大麦ともち米のみで作られている)

20151013_ougiya_001.jpg

20151013_ougiya_002.jpg



土日祝日のみ営業しているようです。

20151013_ougiya_003.jpg


あなたの応援が、ブログ更新の励みとなっています。
拍手やランキングボタンをポチッとよろしくね♪
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ
関連記事
テーマ:静岡県
ジャンル:地域情報
2016年12月02日 (金) | 編集 |
2015.10.13 探訪 
記事は去年訪れた時のものです。
夜泣石についての記事を読んでいない人はこちらからどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1460.html

20151013_kyuuenji_001.jpg

20151013_kyuuenji_002.jpg

日坂から安全なルートを辿って久延寺へ。広重の東海道五十三次の絵
に描かれた、石が元々あった場所も見たかったですが今回はスルー。
ま、焦らなくてもいつでも行けるさ。

さて、お寺に到着しましたよ。

20151013_kyuuenji_003.jpg

久延寺
http://www.kakegawa-kankou.com/kanko/guide/facility_detail.php?_mfi=56
-------------------------------
 久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。
本尊は聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、
子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護
によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、
子育て観音と称される。
 慶長五年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、
大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。

-----------------(久延寺 案内板より一部抜粋)

20151013_kyuuenji_004.jpg

20151013_kyuuenji_005.jpg

んで、実はこの久延寺にも夜泣石があるのだが、
この寺の境内にあるのは「夜泣石と同型の供養塔」であって、
夜泣石本体ではありません(本物の夜泣石は以前紹介した物です)。

20151013_kyuuenji_006.jpg

【夜泣石が二つある理由について】
本物の夜泣石は、東海道の道の真ん中にあった→
明治天皇が東京に巡行のため、夜泣石は沓掛の茶店前に移される→
久延寺へ移される→浅草の「東京博覧会」で見世物として出品→
博覧会終了後焼津港へ→中山街道まで運ぶも峠の道が急すぎて運べず
石はそのまま峠の小泉屋に置かれることとなる→久延寺、仕方がない
ので同型の石を「久延寺夜泣石」として境内に置く。

YouTubeから拝借。


ちなみに昭和十一年に東京銀座の松坂屋で開催された、
『静岡物産展』でも本物の夜泣石の方が展示されたそうですが、
この時に計測された石の重さが、三百貫(1125kg)だと記録されて
いるそうです。そりゃ当時の運搬技術ではあの峠を越えるのは
無理があったことでしょうね。

【もうひとつの夜泣石伝説】
-------------------------------
 その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに
行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、
苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、
お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
 その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、
お石の御魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。
 傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で
育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
 そこへ轟業右衛門は刃研にきたおり刃こぼれがあるので
聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り
捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり
名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
 その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、
立ち去ったと言う。

 文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

-------------------(久延寺 境内案内板より)

……許す話より、こっちのお話の方がスッキリするんだよなぁ。
やっぱ悪いヤツは討たれるべきだと思うの。(´・ω・ )


★その2に続く!
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1465.html


いつも応援ありがとう!
拍手やランキングボタンをポチッとよろしくね♪
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ
関連記事
テーマ:静岡県
ジャンル:地域情報