「忖度」なんて言葉が出て以降バカの一つ覚えみたいに、
まぁーだ忖度忖度言ってる奴がいるとは笑えるね。
頭悪いのかな?他に言葉を知らないのかな?
バカだからちょっと新しい言葉を覚えると何度も使いたくて
たまらない人って居るよね。お子様かな?
忖度忖度、もういい加減うるさいッスわー。
「同じこと思ってたわ」って人、
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御本殿四社を拝める所があるそうなので行ってみる。

…と言っても屋根だけですけどね。
御本殿の四社、そして一番左手側にあるのが若宮です。

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第一殿から第四殿が左右に並んで社殿を構えています。
平成26年の「平成のご造営」の修復工事で本殿の塗装を
江戸初期の配色に戻しています。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)
神社参拝の栞はこちらから(pdf)。
https://niutsuhime.or.jp/wp-content/themes/niutsuhime/files/about/goyuisho/yuisho.pdf
下の写真は「佐波神社」。


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神饌所の横にある境内社です。
明治時代に地域の諸社を合祀した社です。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)
お参りが済んだらこちらの方へ。

来てみたはいいけど大峯修験者の碑以外は何もありませんね。
かつてこの場所には「御影堂」と「多宝塔」があったそうです。


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【御影堂跡】
お堂は、三間(5.4m)、四方に三尺(90cm)の縁をつけ、
本尊は、大師尊像を安置していました。源頼朝の妻、二位の尼
(北条政子)によって建暦元年(1211)建立され、二位の尼が
熊野詣でのかえりに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立寄進
と共に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、
夫頼朝の菩提を弔うために建てられたと言われています。
【多宝塔跡】
二層の塔は、二間三尺五寸(4.65m)、周りに縁をつけ、
御本殿は、胎蔵界大日如来を安置し、神社周辺に建立された
中心的なものでした。
十世紀中頃、高野山一度目の荒廃のとき、復興に当たった
雅山僧都によって建てられ、御影堂とおなじく神社に向かって
正面に建てられていました。堂と谷川の間、一段低いのが昔の
各堂塔の参拝道です。
-------------(丹生都比売神社 境内案内板より)
【光明真言板碑と大峯修験者の碑】


「光明真言板碑」

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大きな板碑は、光明真言曼荼羅碑と言います。
寛文二年(1662)建立され、正面の円形の部分に、中央下より、
時計の針の進む方向に、梵字で光明真言が、背面には、多くの
僧名が刻まれています。
この頃より、光明真言講が形成され、この形の碑が建てられ
るようになりました。
-------------(丹生都比売神社 境内案内板より)
「大峯修験者の碑」

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高い石柱の四基は、大峯修験者(山伏)が、
大峯入峯に際し建てた碑で、県の文化財に指定されています。
元は、神社輪橋を渡った所に建っていましたが、
明治の神仏分離により、此処に移されました。
向かって右より
四号塔 延元元年(1336)泰助 外三十名
二号塔 正安四年(1303)定慶 外百七十名
一号塔 正応六年(1293)幸明 外九十名
三号塔 文保三年(1319)覚祐 外百八十名
-------------(丹生都比売神社 境内案内板より)
詳細不明の祠。

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『丹生都比売神社』にやって参りました。


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両部鳥居の様式。
両部とは密教の金剛界・胎蔵界のことで神仏習合が盛んだった
神社によく見られ、高野山と縁の深い丹生都比売神社の鳥居
にもみられます。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)
「輪橋」
ここに来たのは今年の一月。
橋は凍結による転倒防止のため閉鎖されていました。



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神様がお渡りになる神橋ですが、丹生都比売神社の輪橋は
神さまのおかげをいただくために、参拝者も渡ることができる
ようになっています。 半円形に沿った形が別名、太鼓橋の由来に
なっており、坂のような傾斜になっています。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)

こちらは「鏡池」。

続いて「中鳥居」。大正6年に一度焼失。
平成22年10月16日に再建されたそうです(軒高7メートル超)。

一月はとても寒く、手水舎の柄杓の水が凍結。
神社で手を清める時にはけっこう厳しい季節だったりw
「うわぁあぁぁぁーーっ!冷たい!」って声が出てしまいます。

さて、お参りをしましょう。

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楼門
室町時代に建立された入母屋造・檜皮葺きの堂々とした楼門。
本殿とともに重要文化財の指定を受けています。
一般のご参拝はこの楼門前からとなります。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)

丹生都比売神社
https://niutsuhime.or.jp
御祭神/第一殿:丹生都比売大神、第二殿:高山御子大神
第三殿:大食都比売大神、第四殿:市杵島比売大神
若宮:行勝上人
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紀ノ川より紀伊山地に入り標高450メートルの盆地天野に
当社が創建されたのは古く、今から千七百年前のことと伝えられ
ます。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神告門』に
よれば、丹生都比売大神は天照大御神の御妹神さまで稚日女命
とも申し上げ、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を
巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、
丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗った
ところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿
と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を
意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山が
あったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名
と神社があります。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く
日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。
全国にある丹生神社は88社、丹生都比売大神を祀る神社は108社、
摂末社を入れると180社余を数え、当社はその総本社であります。
------------------------(↓続く)

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丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地
を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身
して現れ、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神
よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を
建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。
これ以降、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の
恵みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存
する日本人の宗教観が形成されてゆきました。
中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ(絵図参照
3DCG再現映像)明治の神仏分離まで当社は516人の神主と
僧侶で守られてきました。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、
神社境内の入口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが
慣習でした。 鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都
比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条
政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会
が明治のはじめまで盛んに行われます。現存する本殿は、
室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、
一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財
に指定されています。
尚、平成十六年七月「紀伊山地の霊場と参詣道」の丹生都比売
神社境内として世界遺産へ登録されました。
-------------(丹生都比売神社 公式サイトより)
【丹生都比売神社仮想再建CG】
★その2に続く♪
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