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南隋神門から続く回廊。


「吉備津えびす宮」。


えびす宮から見た回廊。

えびす祭りが観れるQRコード。

「岩山宮」への参道。※ココはお参りしませんでした。


再び回廊を歩く。

「御竈殿」へ向かうのですが、残念ながら内部は撮影禁止。
遠くからならOKだそうなのでココから撮影。


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御竈殿鳴動神事の由来
社伝によれば御祭神に退治せられた鬼「温羅」を祀る処
と伝えられる。縁起によると、或夜、吉備津彦命の御夢に
温羅の霊が現れて「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして
ミコトの釜殿の神饌を炊かしめよ。若し世の中に事あらば
釜の前に参り給はば 幸あれば裕かに鳴り禍あれば荒らかに
鳴らふ。ミコトは世を捨てて後は霊神と現はれ給へ。
吾が一の使者となりて四民に賞罰を加へむ」と告げた。
これが神秘な釜鳴神事のおこりである。
今日も「鳴釜の神事」が行われており 鳴動の音の大小長短
により吉凶禍福を卜とするのである。江戸時代の林道春の
「本朝神社考」や上田秋成の「雨月物語“吉備津の釜”」
などに紹介され 神秘な神事として天下に有名である。
うずなへる神のひびきに鳴る釜の
音のさやけき宮ところかな 重胤
御竈殿祈祷 一件につき 参阡円也
神火授与
吾国では古来より火は神秘的なものとして神聖化されて
来ました。当御竈殿の火は古くから消えることなく伝わる
神火でこの火で各家庭の火を清めると禍を祓い福を招くと
伝えられ今日でも特に火を取り扱われる人々が火縄にて
お持帰りになって居ります。
--------------(吉備津神社 境内案内板より)
御竈殿に入って思わず「おぉー!」と声が出てしまいました。
皆さんにも是非、実際目にして頂きたいところです。



※QRコードの動画は360度動画。
下の写真は「春日宮」「大神宮」「八幡宮」。

こちらは「御供殿」。

「岡山一中吉備津教場跡」。
吉備津弓道場と本宮社の間の回廊脇にあります。

「本宮社」。

(内宮・新宮合祀)
御祭神/孝霊天皇・吉備武彦命・百田弓矢姫命
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当社の南端に鎮座し、吉備津彦命の父母神をおまつりして
おり、安産・育児の神様として信仰されています。
※正宮・本宮・内宮・新宮・岩山宮 =吉備津五所明神
--------------(吉備津神社 公式サイトより)
「ぼたん園」。
四月下旬になると約400株のぼたんが見頃となるそうです。

外に出ました。

こちらは「宇賀神社」。
吉備国最古の吉備神(商売の神様)が祀られているそうです。

駐車場の方向へ。

「岡山県関係 法務死殉国烈士 慰霊顕彰之碑」。
建立/昭和五十九年十二月十四日 岡山県憲友会

一番奥に見えるのは「忠魂碑」です。
(建立は明治四十三年五月吉日。帝國在郷軍人会直金村分会
によって建立されたようです)
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吉備津神社
http://www.kibitujinja.com/
御祭神:主祭神/大吉備津彦命
相殿/御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、
日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、
若日子建吉備津日子命
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当社は大吉備津彦命を主神とし、その異母弟の若日子建
吉備津日子命と、その子吉備武彦命等、一族の神々を合わせ
祀っております。大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子に
あたられ、もとのお名前を五十狭芹彦命と申し上げ、
武勇の誉れ高いお方であられます。
一説によりますと、第十代崇神天皇の御代、災害もなくなり
天下もようやく治まってまいりましたが、都から遠く離れた
地方には未だ朝廷に従わない者が多数おりました。そこで
天皇即位十年に皇族の中から四人の将軍を選び、印綬を授け
各地方に派遣し討伐することとなりました。
すなはち、北陸道には大彦命、東海道には武渟別命、丹波には
丹波道主命、そして西道のちの山陽道には大吉備津彦命が派遣
されることとなりました。
吉備津彦命と異母弟若日子建吉備津彦命は兵を率いて山陽道を
進軍し、まず播磨国に達してここを「吉備の道口」と定められ
加古川の畔で神祭を行っております。
-----------------------(↓続く)

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その場所と思われるところに日岡神社が現存し天伊佐々比古命
がお祀りされています。こうして命は吉備国に入り、人々を
苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を苦戦の末退治することが
でき、この地方に平和と秩序をもたらしたと云われております。
当社がいつごろ誰によって造営されたのかについては、文献
もなく確かなことはわかりませんが、ただ言い伝えによると、
一説に吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命と
いう人が祖神として吉備津彦命をお祀りしたのが起源であると
云われております。
また一説に若建日子吉備津彦命から三代目の孫と云われる
稲速別命・御友別命・鴨別命が始めて社殿を造りお祀りしたと
も云われます。さらに一説に仁徳天皇が吉備海部直の娘である
黒媛を慕ってこの地に行幸したときに、吉備津彦の功績を聞き
称えるために社殿を創建してお祀りしたのが起源とも伝わって
おります。
--------------(吉備津神社 公式サイトより)

御神木の銀杏の奥にあった池。


祈祷殿の辺りから写した「御本殿」。


御本殿を横から撮影。
美しい形をしたこの御本殿は「比翼入母屋造」
(全国唯一の様式から「吉備津造」とも称します)。
室町時代応永三十二年(1425)に再建された国宝です。

国指定重要美術品の「銅鐘」。


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当社も王朝以来、数百年に亘って神佛習合時代が続いたが、
享保十七年(1732)社家により境内の安政四年(1447)建立
の三重塔破却事件がおこり、元文二年(1737)の幕府寺社
奉行裁決は寺院側敗訴となり神佛分離運動が一気に加速され、
当社の神佛混淆は分離、社僧寺院は完全に関係を絶つに至った。
この銅鐘はその遺品の一つである。
社務代生石兵庫助藤原家秀らが、
永正十七年(1519)卯月九日、国家安泰の祈願のため
吉備津宮に奉納す との銘文があり、その製作年代や動機が
明瞭である。
---------------------(説明文より)
こどもみくじに桃太郎の絵。



バーチャル体験が出来るそうで、QRコードを読み込ませると
御本殿内を360度見渡す画像が出てきます。
もしも読み込めない場合は下記のリンクからどうぞ。
http://www.sanyo-eiga.com/kibitsu/honden20160711.html


修復前神事、修復作業、修復後神事のQRコード。
youtubeでは検索で出てこない動画でした。
限定公開の設定になっていたのでいつか動画が消えてしまう
可能性があります。気になる人はお早めにどうぞ。



「いちょう神木」。

南隋神門より向こうへ行ってみましょう。

★その3に続く!
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