http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1503.html
2021.3.19 参拝
自分の存在意義を色々考えたくなる時って皆にもない?
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3626.html
これは今年の三月に何もかもやる気が起きなくなり(↑)、
じっとしていると死んでしまいそうだったので、
フラフラと散歩に出掛けた時になんとなくココに訪れ
お参りをした記録。
浜当目に来た時に那閉神社が近くにある事を思い出し、
海岸側の道から神社の方へ向かいました。
下の写真、山の上に見える建物は「かんぽの宿」。


那閉神社は虚空蔵山(当目山)の麓に鎮座。
周りは海と住宅。静かでのどかな場所にある神社です。
鳥居は社殿の方に向かって参道に三基立っています。


「困った時の神頼み」じゃないんだけどさ…
どうしたらいいのかわからなくて答えが知りたくて、
神様にすがりたくなる時ってあるよね。人に話せばいいじゃん
って思われるかもだけど自分は昔からそういう時って人には
何も言わず嘘笑いして抱え込むクセがあるんだよな。
誰かに「助けて」って言ったところで解決もしないので、
神社の神様だけにコッソリ話すみたいな感じで。

那閉神社
https://nahe-shrine.jimdofree.com/
御祭神/大国主大神、事代主大神
----------------------------
継体天皇三年(西暦509年)四月、物部氏の勧請により
当目山に鎮斎、その後一度海中神の岩に鎮座したが、
風浪の害を避けて現在地に奉遷された。
我が国の最も古い神祭の姿である、海の彼方から訪れる神を、
一旦海中の島(神の岩)にお迎えし、海岸の御座穴にお祭りし、
さらに姿美しい神奈美山(かんなびやま=お椀を伏せたような
姿の山)に神は降臨されるという、その信仰そのままの山が
当目山であった。したがって、その昔は社殿もなく、
山そのものが御本殿(御神座)であった。
延喜式内社で、『延喜式』(西暦927年完成)巻九神名上に
「駿河国益津郡四座並小、那閉神社」とある。昔は年々国司が
祭り、弘安四年(西暦1281年)には朝廷より奉幣があった。
現在も大漁神・福神として近郷の崇敬を集めている。
旧除地は二石で明治八年(西暦1875年)二月村社に、
同四十年(西暦1907年)三月神饌幣帛料供進社に、大正四年
(西暦1915年)五月四日に郷社に列格した。
---------------(那閉神社 公式サイトより)
拝殿の前には御祭神二柱の石像が。
向かって右側は大国主大神と、向かって左側は事代主大神。

【大国主大神】
七福神の「大黒様」と同一視されている神様です。
古事記では因幡の素兎のお話で兎を助けた心優しき神様。

【事代主大神】
七福神の「恵比寿様」と同一視されています。
大国主大神の御子で、鯛釣りが大好きな神様です。

豆知識:島根県の出雲地方へ行くとこんなお話が…
恵比寿様(事代主)がどうしていつも足を曲げているかって、
地元の人曰く「サメに足を噛まれ不具になったから」だとか。
事代主がサメに噛まれるお話はこちら(過去ログ・漫画)。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-135.html
続いての写真は那閉神社の社殿に向かい右手側奥にある祠。
青木神社(向かって左側)/御祭神:須藤左門大明神
島津神社(向かって右側)/御祭神:須佐之男命

青木神社。
説明は過去ログに書いたけどもう一度転載。

----------------------------
須藤左門命と青木神社について
戦国時代末期、駿河(静岡)の地では、
たびたび武田と徳川との合戦が繰り返されていました。
天正9年(1581)5月5日、浜当目の殿山の尾根先にあたる
青木の森(現在のサッポロビール静岡工場あたり)付近で、
用宗(持舟)城にいる武田勢と徳川勢とで争いがおこりました。
上州(群馬県)碓井郡から武田勢の味方として加わっていた
須藤左門も、この争いに入っていました。
言い伝えによれば、武将として名高い須藤左門は次々と
徳川勢を打倒し、徳川勢のひとりである石川という武将と槍を
あわせました。このとき、この石川という武将は初陣(初めて
の戦い)で若者であるため、須藤左門は勝てるはずもなく、
あっさりと組み敷かれてしまいました。須藤左門は石川の首を
とろうとしましたが、石川のあまりの若さと故郷に残した
息子たちの顔が重なり、そのまま引き返そうとして背を向けた
その時、後ろから討たれて命を落としたといわれています。
須藤左門を討ち取ったという手柄から、石川家は将軍直属の
家臣で直々に会うことのできる旗本という身分にまで
とりたてられました。その後代々石川家は繁栄しましたが、
何代か後の石川家の主が、駿府城に行くたびに急死をするので、
須藤左門の怒りを鎮めるため石祠(石のほこら)を造り、
青木の森に祀って浜当目の人たちとともに、ねんごろにお祭り
を行いました。時に宝暦4年(1754)1月29日のことでした。
----------------------------
更に右奥にあるこちらは「山神」。
山神様のすぐ背後には虚空蔵山(当目山)。


那閉神社の社殿に向かって左手側には「稲荷神社」。
御祭神は保食神。

赤鳥居を奉納した人の名前が書いてあります。
お稲荷さんの御利益があれば食うに困りませんね。
漁師さん達の船もきっと大漁でしょう。

お参り後に撮影した虚空蔵山と海。

(=゚ω゚)「自分探しして答えは見つかりましたか?」
SERUNA:「残念ながらいまだに見つかっていません」
見つかったら苦労しませんって。
★2023年記事再更新:
青木神社の祠が元々あった場所についてはこちら。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-4426.html
ブログに訪問ありがとう。
よろしければ応援拍手をポチッと頂けると嬉しいです。