京都御苑にやって参りました。
…が、目的はここではなくて御苑内にある厳島神社。


下の写真は「建例門」のあたり。
広くて塀の外側をずっと歩いて行くにも一苦労です。

門に向かって左手側。

門に向かって右手側。

少し離れた場所から。ちなみに時間は16:00頃。

到着しました。京都御苑の厳島神社は平清盛が母祇園女御の為
厳島神社の神を祀ったのが始まりだそう。


厳島神社(京都御苑)
https://sugawarain.jp/about/concurrent/
御祭神:祇園女御・市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命
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一.当社は往昔平相國清盛公安藝の國佐伯郡に坐す嚴島大神を
崇敬の余り攝津の國莵原郡兵庫築島 (神戸市兵庫区永沢町)
に一社を設けて、この大神を勧請し給い鎮祭されたのであり
後故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました。
後世 年を経て、この九條家邸内 拾翠池の嶋中に移転、
遷座されたものであります(濫觴年代等は天明八年、
京都大火の砌。旧地悉く焼亡して詳でありません)
この地旧公爵九條家の邸内に属せしにより自ら同家の鎮守と
なりました。又古くより家業繁栄家内安全の守護神として
一般の人々よりも深く崇敬されているところであります。
一. 神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名
であり詳細は本殿横の由来書を御覧ください。
---------------(厳島神社 境内案内板より)
これも「京都の三珍鳥居」と呼ばれるもののひとつだそう。


----------------------------
社前の鳥居(重要美術品)は、平清盛公兵庫厳島の同神社に
建てられたもので第104代後柏原天皇の御代永正の足利家の
管領細川武蔵守高國、有名なる京都の彫刻師後藤氏の邸を掠奪
して住居として居たが、大永元年3月(1521年)足利12代将軍
義晴公 播磨國より上洛して暫くこの邸に在留際取り寄せて庭前
に建て置かれしところ、足利市滅亡の後、徳川家康公 後藤氏に
所領を下賜の沙汰あり、望に任せて後藤氏を右邸に復住せしめ
たるが、慶長9年徳川家康公此邸に立ち寄らせ給ひし折り
御覧あり 該鳥居の古稚なる形を深く愛玩し給ひし事ありてより、
以来 京都所司代の交代後とに必ず巡見すべき物件となり。
明和8年3月(1771年)後藤法橋玄家の代に内大臣九絛道前公
(芳盛光院殿)鎮守の厳島神社由来有るにより當時所司代、
阿部飛騨守正元(武蔵國鷹忍城主)を以て幕府に懇望し給い
當神社に復帰す。之は最も世に類例なき姿にして、
即ち破風形の鳥居を口し 昭和13年6月文部省より重要美術品
に指定される。
---------------(厳島神社 境内案内板より)


★その2に続く。
→http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3979.html
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ランキングからアクセスしてきて爆撃するかのように
記事とは全く関係ないコピペの長文コメントにうんっざり。
他のブログにもペタペタと貼りまわっているんだろうな。
しかも一個記事が書けるんじゃないかと思うくらいの長文。
たいして読まずに削除したけど、本当やめて欲しい。
釈迦に説法。憲法改正しないといけないのも中国の危険性も
どっちもとっくにわかってるっつーの。そういう人に限って
コピペしていった後はどうせ再び訪問する事も無いだろうね。
「多くの人に目醒めて欲しい!」と必死になるのはわかるが
書き逃げされた方はたまったものではないッス。
国を護る気持ちは結構な事だが、それ以前に見ず知らずの奴
がブログに突然現れてそんな事するのは荒らしと同じです。
そういえば某SNSの時にも居たなぁ…
記事には一切興味なく、内容とは全然関係のないコピペ文を
貼り逃げする人。あれ絶対頭どうかしてると思う。
何がしたいんだろう?
★関連過去ログ:
当ブログでの注意事項。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-480.html
貼る前に読んでもいないんだろうな。
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きっと同じような事されたブロガーさん他にも居るかも?
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昨日、焼津神社へお参りに行った時に撮影。今年の桜。


鳥居の方を振り返ったところ。

まだ若干つぼみがあるので七分咲きくらいかな?
満開と言えるまであともう少し。

社務所前には桃の花。縁台が置いてあるので、
晴れた日はここに座って花でも見ながらまったりしたい。
この日はちょっと曇り空だったのがなんですが…

★おまけ。
社務所の中に展示されていた日本刀を久々に撮影。
「入江大明神」の刀だけは以前掲載したことのあるもの。
【刀 義忠(よしただ)】
長さ 65.8cm(2尺1寸7分) 現代(昭和)


----------------------------
昭和16年に大東亜戦争(第2次世界大戦)が始まり、
数多くの軍刀が作られた。この為、日本刀の材料である玉鋼が
不足し、半鍛錬と呼ばれる粗製乱造の刀も多くみられる。
この義忠の刀は昭和20年に軍用刀として製作されたもので
あるが一般的な軍刀とは違い、質の良い玉鋼を使用し、
日本刀本来の鍛錬方法で作られた健全で出来の良い刀である。
地鉄も小板目がよくつみ無地風となり、刃文は直刀で
茎(なかご)も制作当時のままで刀工義忠の最高傑作の一振り
である。
---------------------(説明文より)
【太刀 無銘 奉納刀(入江大明神)】
長さ 94.6cm(3尺1寸2分) 江戸時代


---------------------------
この太刀は、長さが3尺を超える豪壮な大太刀で、
刀身に入江大明神の彫がある。室町時代に今川氏が駿河国を
治めていた頃、焼津地域は「入江荘(いりえのしょう)」
と呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも
称されてきた。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神」
の文字が彫られている。今川氏や徳川家などの武家の信仰も
篤く、また焼津地域の人々や命がけで漁に出て働いていた
漁業関係者にとって心の支えとして崇められ、現代までその
信仰が受け継がれている。
---------------------(説明文より)
【脇差 景光(かげみつ)】
長さ 40.2cm(1尺3寸3分) 江戸時代


----------------------------
景光は備前景光が有名であるが、本作は江戸時代初期の
寛文頃(1661年)の因幡(今の鳥取県)で鍛錬した景光と
思われる。姿は身幅狭く、反りが付き、小切先であり、地鉄は
小板目がよくつみ無地風となり綺麗な肌である。刃文は匂い口
しまり心の小互の目をむらなく上手に焼いている。
その細身の姿から、お祝い差しと思われお正月や子供の七五三
などのお祝い時に使用されたものである。
---------------------(説明文より)
他の刀が見たい人は、ブログ内検索「焼津神社 刀」
で検索して過去ログをご覧になって下さい。
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「晴明神社」にやって参りました。
前に来たのは随分前。じつに七年振りのお参りです。
前回の記事をリンクさせておきます。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1108.html
是非とも七年前に参拝した記事と照らし合わせながら
ご覧になって頂けると嬉しいです。
下の写真は一の鳥居。
額に輝く金の社紋は「晴明桔梗」(五芒星)。
社紋が掲げられている鳥居は全国でも珍しいものだそう。
夕刻だったので写真が暗くてすいません。

一の鳥居をくぐって進むと二の鳥居。
陰陽道、陰陽師、呪術、式神…などなど。日本でこのワードが
嫌いという人はまず居ない。陰陽師安倍晴明は漫画や小説、
舞台や映画、ドラマに至るまで見目麗しい男性像で描かれる為
女性の支持が凄く、参拝者の殆どが女性で占めている感じ。
絶え間なくお参りに訪れる方々がいらっしゃいます。

【晴明井】
…この井戸こんなに綺麗だったかな?


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晴明公が念力により湧出させた井戸が、この晴明井です。
病気平癒のご利益があるとされ、湧き出す水は現在でも飲んで
いただけます。水の湧き出るところは、その歳の恵方を向いて
おり、吉祥の水が得られます。恵方は毎年変わりますので、
立春の日にその向きを変えます。
---------------(晴明神社 公式サイトより)
【手水舎】
感染防止対策のため閉鎖中でした。

とってもシュールな顔はめパネル。

お参りしましょう。

晴明神社
https://www.seimeijinja.jp/
御祭神:安倍晴明御霊神
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晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公を
お祀する神社です。創建は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業
を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、
晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。 古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、
西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なもの
であったとされています。
ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる
戦火によって、その規模は縮小。古書、宝物なども散逸し、
社殿も荒れたままの時代が続きました。その後、式年祭の度に、
氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年
には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張される
など、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が
進められました。 近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く
知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。
平成15(2003)年には、御鎮座壱千年祭が斎行されました。
---------------(晴明神社 公式サイトより)
【御神木】


安倍晴明公のブロンズ像と拝所。


拝所に向かって右手側に末社。
「地主社・齋稲荷社・天満社」があります。



----------------------------
本殿北側には、お稲荷さま他2柱の神様が祀られるお社、
齋稲荷社があります。齋(いつき)という言葉は、
このお稲荷さまが、齋院(さいいん/鴨神社に仕える齋王が
おこもりする場所)にあったことに由来します。
晴明公は、お稲荷さまの生まれ変わりとする説があり、
各地で稲荷信仰と習合されます。
---------------(晴明神社 公式サイトより)
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・前・行!
地面に「九字護身法」がありました。
以前来た時には無かったな。


御神木と一緒に。

絵馬。


授与所に行くと、有名人が奉納していった絵馬がズラッと
並べられています。晴明神社へ訪れた際はこちらの方にも注目
してみては如何でしょう。



神社のすぐ近くには「一条戻橋」もあります。
https://www.digistyle-kyoto.com/magazine/10861
(リンク先:デジスタイル京都)
【余談です】
ところで晴明さんの墓所ってどこでしょうね?
伝承地は複数存在していて、本当の場所がわからないようです。
直径子孫のお墓は京都市下京区にあるみたいですが、
その子孫の方も消息がわからなくなっているとか何とか。
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「平野神社」にやって参りました。
北野天満宮のすぐ近くに鎮座しております。


神門の前の桜の木は「魁桜」といって平野神社発祥の桜。
公式サイトの説明によれば魁桜は早咲きの品種で、
この桜が咲きだすと都のお花見が始まる頃と言われているそう。
https://www.hiranojinja.com/home/cherry
春になると境内の桜苑(下の写真、神門に向かって左手側方向)
の桜がブワッと咲き乱れて綺麗だそうです。

神門をくぐり正面に見えるは拝殿。

御神木。

…の前にある日本最大の餅鉄「すえひろがね」。
重さ:200kg、厚さ:27cm、高さ:80cm、鉄分約70%。

中に磁石の入っている「授かる守」をペタッとして祈願し、
お家に持ち帰ると良い事があるかも知れない。

平野神社は平成30年の台風21号で甚大な被害を受けたそう。
https://www.hiranojinja.com/home/revive
御本殿が修復中で足場が組まれ、中が見えませんでした。


…ですが御神体は一時仮殿に移されていたので、
そちらに向かってお参り。


平野神社
https://www.hiranojinja.com/
御祭神:第一殿/今木皇大神、第二殿/久度大神、
第三殿/古開大神、第四殿/比賣大神
----------------------------
【沿革】
奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の
今木大神に従四位を授ける」とあり、平城宮の宮中に祀られて
いました。
ここ平野の地には、延暦13年(794)平安遷都と同時に
ご遷座されました。当初境内地は方八町余(平安尺で1500m
四方)で、現在の京都御所とほぼ同じ大きさでしたが、
時の変遷とともに現在の200m弱四方となりました。
【御神階】
平安時代になるとご祭神は急に位が上がり、貞観6年(864)
年には今木皇大神が正一位の位を授けられました。
その前年貞観5年(863)には久度大神・古開大神に正三位、
比賣大神は従四位上に叙せられています。
【社格と称号】
『延喜式』によれば、全国唯一の皇太子御親祭が定められた
神社です。同式の「神祇官式・祝詞」には「皇大御神・皇大神」
と称され、また「東宮坊式」には「神院」という宮中神と同様
の扱いを受けております。『文徳天皇実録』仁寿元年(851)
は勅使を「平野神宮」に遣わすとあります。全国でも数社に
限られる「皇大御神・皇大神」「神宮」、宮中神である「神院」
これらの尊称から宮中外の宮中神であったことが窺えます。
また明治4年(1872)には官幣大社に列格しております。
【宮中 平野御竈】
『延喜式』の「内膳司式」によれば、天皇の食を饗する御竈
には「平野・庭火・忌火」の三竈があり、庭火御竈は平時の
食膳、忌火御竈は祭事の食膳を饗し、平野御竈は健康・吉祥を
司る御竈であるとされています。これは平野四神の御神徳が
一体となり常に宮中と関わりを持ち、天皇をお守りしていた
ことにほかなりません。
-----------------------(↓続く)

※上の写真は御本殿に向かって拝殿右手側。
----------------------------
【八姓の氏神と伝奏家】
奈良時代末期から「臣籍降下」の制度が定まり、臣籍降下
した源氏・平氏をはじめ、高階・大江・中原・清原・秋篠各氏
ほか天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む
公武に尊崇されました。当社が宮中外に祀られたのは、
この臣籍降下と深く関わっているようです。『源氏物語』の
光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った平野大神の顕現で
あるとの説も一理あるようです。
江戸期には平氏嫡流の公卿、西洞院家が伝奏家を勤め、
現社殿の復興をしました。平成17年東大鳥居改修の際、
『平野皇大神』の御神号額を当代西洞院文昭氏の揮毫で新調
しました。
【異説】
中世期、仁徳天皇が平野の神であるという説が広く信じられ
ていました。これは仁徳天皇が民家の烟(煙)が立たないのを
ご覧になり免税したという逸話を当社の竈神に付加した説です。
江戸期に、国学者の伴信友が諸作『蕃神考』で、
「今木神は百済王なり」との誤った説を、根拠となる資料を
改竄して唱えました。今でもこの説を敷衍した説が時々出され
ますが、学問上では否定されています。
---------------(平野神社 公式サイトより)
【おまけ】
「十月桜」。開花時期は10月〜4月。
10月頃咲き始めて春に二度咲きするんだそう。


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本殿の裏手にあるお社。
写真手前のお社は創建以前から鎮座している「地主社」。
奥の方へ老松社、寛算社、大門社、橘逸勢社、藤太夫社、
文太夫社、淳仁天皇社、太宰少貳社、老松社、白太夫社、
櫻葉社、吉備大臣社、崇道天皇社。

その横には絵馬掛所。
ものっすごい数の絵馬が掛けられています。

見切れていますが、絵馬所のそばにも幾つものお社が。
奥から福部社、高千穂社、安麻神社、御霊社、早取社、
今雄社、貴布禰社、荒神社、神明社、文子社、那伊鎌社、
一拳社、周枳社、宰相殿社、和泉殿社、三位殿社、大判事社。

西回廊側にもあるけど撮っていません。
【御后三柱】
御本殿と背中合わせになっているところ。
「裏の社」と言われ天神さん七不思議のうちのひとつ。

御祭神:天穂日命、菅原清公卿、菅原是善卿
----------------------------
天穂日命は、道真公の遠い祖先の神。
菅原清公卿は菅公の祖父。是善公は菅公の父である。
清公卿は若くして遣唐使に任ぜられ、空海・最澄や橘逸勢らと
入唐。その成果をもって、朝廷儀式の改革に努められた。
後に菅原氏として初めて公卿に列せられる。
是善卿は、十一歳の時嵯峨天皇の御前で書を読み詩を造られた
俊才で、大学頭・勘解由長官の養殖を歴任された後、
政治の最高機関である太政官の重職「参議」に列せられた。
両人とも文章博士(古代の大学で詩文と歴史を教授した教官)
を勤め、清公卿は学問所『文章院』を創設、また是善卿は
『菅家廊下』なる私塾の充実に力を注ぎ、ともに優れた人材
を多数育成されるなど、実践的教育者として大きな業績を
残された。
-------------(北野天満宮 境内案内板より)
【竈社】

御祭神:庭津彦神、庭津姫神、火産霊神
----------------------------
庭津彦・庭津姫神の「庭」は家庭の意味で、この二神は
家庭の守護神。また火産霊神は、火をつかさどる神である。
古来この三柱の神は、かまど・台所の守り神として私たち
の日常生活と密接に結びつき、各家庭で大切に守られて来た。
この神々はもともと天満宮の御供所(神さまへのお供えを
調理する台所)のかまどに祭られていたもので、
昔から使われてきた大釜が社殿の床下に納められており、
かいま見ることができる。
なお、かまどの神については中国にも同様の信仰があり、
この神を台所に祭ると福を招くとして守り継がれている。
-------------(北野天満宮 境内案内板より)
何度も言いますが、携帯のバッテリーがあと僅かでしたので
節約しながらの撮影です。境内に摂社末社が多すぎて全部は
撮りきれていません。
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