定食屋さんに訪れるような感覚で見てもらえたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々。ヲタクなネタから神社めぐりまでw
2016年09月06日 (火) | 編集 |
2015.10.5 参拝 
気多大社へやって参りました。
目の覚めるような気持ちの良い青空です。

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立派な神門。
神門から見える拝殿という、この風景も素敵ですね。

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前田利家とまつが崇敬した気多大社。
子沢山で夫婦円満であった二人が愛した神社は、
良縁祈願、縁結びの神社としても広く知られています。

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気多大社
https://www.keta.jp
https://www.facebook.com/ketataisya/
御祭神:大己貴命
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 天平十三年(741年)能登国が越中国の一部であった時代、
越中国の一宮は現在の気多大社であった。気多大社が中央の文献
に初めて見えるのは『万葉集』である。天平二十年(748)、
越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき、
まず本社に参詣して、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝凪ぎ
したり船楫もがも」と詠んだ。本社がいかに重んじられ、のちに
能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神護景雲二年(768)
に封戸二十戸と田二町を寄せられ、しばしば奉幣を受けた。
 斉衡二年(855)には神宮寺に常住僧が置かれ、
神階も累進して貞観元年(859)には正二位勲一等から従一位に
のぼっている。このような国家の厚遇は、東北経営、あるいは
新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではあるまい。
能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威が中央国家に及んで
いたのである。

 近年、南方800メートルの地に発見された寺家遺跡は縄文前期
から中世にわたり、大規模な祭祀関係の出土品や遺構類は
気多大社とのかかわりあいをしのばせる有力な資料となっている。
延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかった。
「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、
越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社が
あり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸に
ひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、
古代における気多大社の神威がしのばれる。

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※御由緒長いので一旦分けます。

20151005_ketataisya_005.jpg

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 建保五年(1217)将軍源実朝が公田として十一町余を寄進
したが、古代の封戸などによる神領であったろう。
中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していた。
能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。
今も遺る摂社若宮神社は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物と
して重視される。近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、
社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば
社殿の造営をした。本殿、拝殿、神門、摂社若宮神社、
摂社白山神社、神庫、随身門がそれである。

加賀藩の保護した社叢には奥宮が鎮座し、
「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。明治四年(1871)
に国幣中社、大正四年(1971)には国幣大社となり、
現在も北陸道屈指の大社として知られる。

------------(気多大社 公式サイトより一部抜粋)

ちょうど御祓いを受けておられるかたがいて、
ドン……ドン……と大きな太鼓の音が鳴り響いていました。

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下の写真は神庫。

20151005_ketataisya_008.jpg

YouTubeから拝借。気多大社の公式CM。


★その2へ続く。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1359.html


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