記事は去年訪れた時のものです。
夜泣石についての記事を読んでいない人はこちらからどうぞ。
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日坂から安全なルートを辿って久延寺へ。広重の東海道五十三次の絵
に描かれた、石が元々あった場所も見たかったですが今回はスルー。
ま、焦らなくてもいつでも行けるさ。
さて、お寺に到着しましたよ。

久延寺
http://www.kakegawa-kankou.com/kanko/guide/facility_detail.php?_mfi=56
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久延寺は、真言宗の寺院で山号は佐夜中山。
本尊は聖観音で、「昔、住職が山賊に殺された妊婦の子を育て、
子は成長して親の仇を討つことができた。これはひとえに本尊の加護
によるものである。」という夜泣石の伝説に因み、
子育て観音と称される。
慶長五年(1600)、掛川城主山内一豊は、境内に茶亭を設けて、
大阪から会津の上杉景勝攻めに向かう徳川家康をもてなした。
-----------------(久延寺 案内板より一部抜粋)


んで、実はこの久延寺にも夜泣石があるのだが、
この寺の境内にあるのは「夜泣石と同型の供養塔」であって、
夜泣石本体ではありません(本物の夜泣石は以前紹介した物です)。

【夜泣石が二つある理由について】
本物の夜泣石は、東海道の道の真ん中にあった→
明治天皇が東京に巡行のため、夜泣石は沓掛の茶店前に移される→
久延寺へ移される→浅草の「東京博覧会」で見世物として出品→
博覧会終了後焼津港へ→中山街道まで運ぶも峠の道が急すぎて運べず
石はそのまま峠の小泉屋に置かれることとなる→久延寺、仕方がない
ので同型の石を「久延寺夜泣石」として境内に置く。
YouTubeから拝借。
ちなみに昭和十一年に東京銀座の松坂屋で開催された、
『静岡物産展』でも本物の夜泣石の方が展示されたそうですが、
この時に計測された石の重さが、三百貫(1125kg)だと記録されて
いるそうです。そりゃ当時の運搬技術ではあの峠を越えるのは
無理があったことでしょうね。
【もうひとつの夜泣石伝説】
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その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに
行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、
苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、
お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、
お石の御魂がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。
里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で
育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門は刃研にきたおり刃こぼれがあるので
聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の付近で妊婦を切り
捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり
名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。
その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、
立ち去ったと言う。
文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より
-------------------(久延寺 境内案内板より)
……許す話より、こっちのお話の方がスッキリするんだよなぁ。
やっぱ悪いヤツは討たれるべきだと思うの。(´・ω・ )
★その2に続く!
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