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兵主大社拝殿翼楼
建立年代 天保十三年(1842年)
改築年代 昭和十六年
拝殿翼楼の建物は中央の拝殿一棟と左右の翼楼二棟とが
組み合った大型の建物でー、県下ではたいへんめずらしい型
のものです。東面して立つ楼門にもやはり左右の翼楼が付き、
兵主大社独特の様式として踏襲されてきたものと考えられます。
現在は埋まっておりますが、平安時代末期には拝殿翼楼の
正面には建物に並行する形で水路が流れ、又本殿からの
正中線上の川幅には橋がかかり、石敷の参道が楼門まで続いて
いました。
昭和十六年(1941年)皇紀二千六百年を記念して改築
されましたが、天保十三年建立当時の部材も多く残り、
天保時の大工は吉地村の長谷川若狭守繁行、改築時の大工は
比留田村の加賀爪忠左エ門と棟札に記載されております。
---------------(兵主大社 境内案内板より)

兵主大社
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御祭神:八千矛神(大国主神)
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景行天皇は、御矛の神威を畏こまれ、穴師(大和国桜井市)
の地を選ばれて、兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦命に奉祭
せしめられた。さらにその後、景行天皇、近江国高穴穂宮に
御遷都されるにあたり、この大神を穴太の地に御遷座になった。
そこで、この穴太(大津市坂本穴太町高穴穂宮跡)を
「元兵主」と呼んでいる。のち欽明天皇の御代、播磨別等
(兵主族の祖先)が琵琶湖上を渡り、この地に移住するに際し、
再び大神を御遷座し、兵主大神の鎮まる土地として奉斎し、
地域住民は、守護神と御神徳を仰ぐに至った。
また、稲背入彦命を乙殿神と崇め、この神域に神主播磨別の
祖神として鎮祭した。
社殿の創建は養老元年、元正天皇の勅定に因ると伝え、
貞観年中、神位従三位勲八等に叙せられ頼朝社と尊崇され、
花山天皇は「正一位勲八等兵主大神宮」の勅額を賜っている。
源頼朝、足利尊氏等武将の崇敬も殊に厚く、歴代寄進の剣、
甲冑を今に伝えている。徳川家は、社領の寄進、
社殿の造営等を奉仕し、五摂家の鷹司家代々の信仰も厚く、
毎年禁中より玉串の献上があった。大正四年、
県社に列せられた。
※滋賀県神社庁のページより
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ちょっと隙間から失礼して…
下の写真は御本殿前。鹿さんの像がありました。

ぐねぐねしている切り株の根。

下の写真は『旧護摩堂』。

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兵主大社旧護摩堂
建立年代 江戸時代後期
棟札によると寛政六年(1794年)十二月に、吉地村の大工、
谷川若狭重道一族により上棟されて現在の形に改められたと
思われる。本来は神社蔵の江戸初期絵図によると宝形造り・
二間四方・廻り縁付きで、兵主神の本地仏(不動明王)を
まつる護摩堂として建立されたものである。
一部、丸柱・格天井などには中世の部材も多く残り、
平成八年の修理では、根継ぎ等による補強を加えて、
歴史的な重みを加えることとなった。
又、内部には、氏子崇敬者三十六社の神々を祀り、
江戸時代にはその御神徳や、現在の守山市・中主町・
近江八幡市・野洲町の二市二町にまたがる信仰圏を形造って
いたものと思われる。
---------------(兵主大社 境内案内板より)
空きれいー♪

境内にいた鶏さん。

「カケコー!」

(=゚ω゚)「……ん?鶏はコケコッコーじゃないの?」
SERUNA:「あぁ、言ってみたかっただけだ。
神話の時代のお話だが、アマテラスさんが岩戸に引き篭もって
しまった時に、智慧者のオモイカネさんが長鳴鶏を集め一斉に
カケコーと鳴かせた場面があってだな…伊勢神宮では遷宮の際
には鶏鳴三声という云々……」
(=゚ω゚)「その話は長くなるのか? つーかココ兵主大社だし」
SERUNA:「うう…またやってしまった。すまん…」
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