再び彦根駅へ(※24日に撮影した物も含まれています)。
駅前に来たのはひこにゃんのマンホール蓋を撮りたかったから。


…………嘘ですw
本当は井伊直政のブロンズ像を撮りたかったのですよ。
ですが、それだけじゃ何なので、まずは先に亀さんの像を。
長いですけど、頑張って書き写しました。読んで頂けたら幸い。
(と言っても多分面倒臭くて、誰も読まないだろうけど)

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彦根縁起(神代〜現代)
「古事記」の冒頭には、太陽を神とする天照大御神(伊勢神宮)
が、国生みの神である伊邪那岐の命・伊邪那美の命(多賀大社)
の御子として生まれたと記されており、また天照大御神の御子で
ある天津日子根の命と活津日子根の命の兄弟神が、
悠久の昔にこの彦根の地に鎮座して国造りをしたとするのが、
この地方に伝承されている神話であります。
奈良時代、日本最古の法典「大宝律令」を完成させた藤原不比等
とその子藤原房前が、永年彦根の地を治めたことにより、
平城京にも劣らぬ地方都市がこの彦根の地に造営されていたので
あります。平安時代中期、末法思想の広がりと共に、全国各地に
観音信仰が生まれ、現在彦根城のある彦根山(彦根寺)には
金の亀に乗った、一寸八分(約6cm)の観音様がおられた事から
別名を金亀山とも呼び、後に築城された彦根城は、金亀城とも
呼ばれております。また当日、霊験あらたかな観音霊場として、
彦根山参詣ブームを巻き起こし、京都方面からの参詣道は巡礼道
と呼ばれ、現在も通称として残り往時を偲ばせております。
江戸時代、藤原鎌足の子孫である井伊家が彦根に入り(入府)、
初代彦根藩主となった井伊直政公は、現在の静岡県引佐町井伊谷
にて生を受け、十五歳で徳川家康に見出されて以降、武田勝頼
との戦いを初陣に、関ヶ原の戦いなどに数々の大功を立て、
慶長六年(1601年)十八万石を賜わって佐和山城主となりますが
関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷がもとで四十一歳の若さ
で亡くなりました。彦根城と城下町は、直継公(途中分家)から
二代藩主直孝公にかけ、二十年の歳月を経て完成したのであり
ますが、井伊家中輿の祖と言われる直孝公の大坂冬の陣・夏の陣
の大功により三十五万石となり、これより以降、近江の国の政治
・経済・文化の中心として長く栄える事となったのであります。
また東京世田谷の豪徳寺が井伊家の菩提寺となったのも直孝公の
時からであります。
彦根の地は誰れ言うともなく、「一に大老・二に佐和山殿」
として井伊直弼公と石田三成公を、彦根が輩出した偉人として
市民の敬慕となり象徴となっているのであります。
井伊家が彦根のまちを開き、平成十三年(2001年)が、丁度
四百年目の年となり、「彦根開府四百年」記念事業の一つとして、
彦根市民有志の手により、本石碑が建立されたのであります。
--------------------(石碑の説明文より)
さて、いよいよ井伊直政のブロンズ像ですよ。
記事は二つに分けますので、よろしければその2もどうぞ。

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井伊直政公像
永禄四年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から
文武両道に励み、慶長五年(1600年)に徳川の四天王の一人として
天下分け目の合戦で知られる関ヶ原の戦で功をあげ、石田三成の
居城であった佐和山城を与えられ、十八万石の大名となった。
その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、
同七年(1602年)四十一歳で病没し、子らが直政の意思を受け継ぎ
二十年の歳月を費やし元和八年(1622年)彦根城を完成させた。
こうして、彦根三十五万石初代彦根藩主井伊直政公は、
今日の彦根市発展の礎を築いたのである。
------------------(ブロンズ像 説明文より)
★その2に続く!
→ http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-1868.html
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