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2018年04月12日 (木) | 編集 |
2017.12.5 探訪 
去年訪れた時の記録です。
『犀ヶ崖古戦場』にやって来ました。

20171205_saigagake_001.jpg

ここは、三方原の戦いで大敗し浜松城に逃げ帰った家康公が、
何とか武田の兵を追い返そうと一計を案じて夜襲を仕掛け、
それに狼狽した多くの武田側の兵が人馬もろとも谷底に転落した
という言い伝えが残される場所です。

20171205_saigagake_002.jpg

20171205_saigagake_003.jpg

20171205_saigagake_004.jpg

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 犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりとしないが、
この付近から下流450mの間に、急な崖が連続している。
この付近では、幅約30m、両岸とも深さ十数メートルの絶壁を
なす。元亀三年(1572)十二月二十二日、徳川家康は、三方原
において武田信玄に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰ったが、
その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲して、
この崖に追い落としたと伝えられる。
 崖状の宗円堂には、この戦による両軍の死者の霊が祀られて
おり、その霊を慰めるため、毎年遠州大念仏が行われる。
静岡県指定史跡。

----------------(犀ヶ崖古戦場 案内板より)

ちなみに、説明文にあるその『宗円堂』というお堂は、
現在は『犀ヶ崖資料館』という施設になっています。
資料館では犀ヶ崖についてのビデオを観ることも出来ますし、
いくつかの資料も展示されています。

20171205_saigagake_005.jpg

案内板によれば宗円堂はもと清雲寺といい、宗源院の末寺だった
そうです。犀ヶ崖の際にあって大念仏を行っていたことから、
念仏堂とも呼ばれていたようです。宗円とは遠州大念仏を伝えた
と言われる浄土宗の僧の名で、そのため1930年頃から宗円堂と
呼ばれるようになり、1935年には遠州大念仏団の本部となり、
1983年4月には現在のような資料館になったという事です。

youtubeより動画を拝借。


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【遠州大念仏のおこり】
三方原合戦の翌々年頃より、犀ヶ崖の谷底から夜な夜な人や馬の
呻き声が聞こえるようになり、付近で怪我人が続出したり、
イナゴの大群が発生し農作物に被害を及ぼすようになり、
このあたりの人々は「犀ヶ崖で死んだ者たちの祟りだ」と恐れる
ように。そこで家康公は三河から「了傳」という僧侶を招き、
七日七夜、鉦と太鼓を鳴らして供養をしたところ、不思議な事に
祟りはおさまったとされている。

それ以降、家康公は三葉葵の紋付羽織を着ることを許し、
念仏踊りを奨励し、その後宗円が了傳の後を継ぎ、更に布教に
努めたため、遠州各地で大念仏が行なわれるようになったと
いわれている。

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下の写真は、資料館側にある「山桃さま」と呼ばれる木。
こんなお話も残されています。

20171205_saigagake_006.jpg

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 むかしむかし、犀ヶ崖の近くに旅の坊様がやってきて、
病に苦しむ人々の為に祈祷を施し、どんな病でも不思議な神通力
を使ってたちどころに治していました。
この噂を聞きつけ、集まってきた人々に坊様は言いました。
「私はここで生き埋めになり(即身仏となり)ましょう。
そしてその上に山桃の木を植えてください。毎年山桃が実を結ぶ
その前にお祈りをすれば、どんな病も治して差し上げます」と。

人々は坊様の言う通りに穴を掘り、穴の中に坊様を埋めました。
坊様は竹筒で作った空気穴を持ち「私の上に土を被せなさい」
と言い、念仏を唱えながら生き埋めとなりました。
竹筒からは念仏と鐘の音が聞こえてきますが、やがてそのまま
大往生を遂げました。

 坊様に言われた通り人々は、その上に山桃の木を植えました。
そして言われた通り山桃の実が結ばないうちに願い事をすると、
必ずその願いが叶ったということです。人々はその桃の木を
「山桃さま」と呼び、大事にされたということです。

--------------------(遠州の昔ばなし)

続いてこちらは『本多肥後守忠真 顕彰碑』

20171205_saigagake_007.jpg

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 この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵
により明治24年に建立されました。
 本多忠真は、徳川家康草創期を支えた徳川四天王の一人である
本多忠勝の叔父にあたる武将です。
 本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中に
あって、撤退に際し殿(しんがり)を買って出ました。
道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」
と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもって
この地で討ち死にしたと伝えられています。
 忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却
しましたが、父の最期を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼
は無情を感じ、父の亡骸を三河に葬ったあと出家の道を進むこと
になりました。
 この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、
本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。
 また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川16代家達公によって
書かれています。

----------------(犀ヶ崖古戦場 案内板より)

『ねずみ小僧次郎吉の供養塔』なんてのも。

20171205_saigagake_008.jpg

犀ヶ崖古戦場と、犀ヶ崖資料館の場所についてはこちら。
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犀ヶ崖資料館
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/hakken/tanbo/201505.html
住所/浜松市中区鹿谷町25-10
電話番号/053-472-8383
休館日/毎週月曜日、祝日の翌日(月曜が祝日の場合は翌日)
    12月29日〜31日
入館料/無料

※2018年4月現在の情報です。
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『夏目次郎左衛門吉信の碑』は取り忘れてしまいました。
家康さんの身代わりになって討死してしまった人
なんですけどね… (´・ω・`)


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ジャンル:学問・文化・芸術
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