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下の写真は『四足門』。
掛川城へはここから入ります。

門のそば、三日月堀のあたりから写した掛川城。

『三日月堀』。


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【三日月堀】
本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。
深さは8mありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかり
ました。その下からは、柱穴が並んで見つかりました。
-------------------(掛川城 案内板より)
四足門をくぐって右手に『十露盤堀(そろばんぼり)』。


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【十露盤堀】
本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来は
はっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように
見えることが、その由来と考えられます。
-------------------(掛川城 案内板より)
お城に向かいましょう。

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【掛川城の歴史】
掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、
戦国時代の明応六年から文亀元年の間に、駿河の守護大名今川氏
が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われて
います。その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、
掛川古城では手狭となり、永正九年から十年頃に現在の地に
掛川城が築かれました。
永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、
永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、
掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、
長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。家康領有後、
重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となり
ました。
天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東
へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には
山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うと
ともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。
-----------------(掛川城 公式サイトより)
個人的にオススメな角度の写真。
記念撮影をする時は、この角度で撮影いかがでしょう?

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【掛川城天守閣の特徴】
掛川城天守閣は、外観3層、内部4層から成ります。
6間×5間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きいもの
ではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入り口に付櫓
を設けたりして外観を大きく、複雑に見せています。
1階、2階に比べ4階の望楼部が極端に小さいのは、殿舎の上に
物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりといえます。
白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は、京都聚楽第の建物に、
黒塗りの廻縁・高欄は大阪城天守閣にならったと考えられます。
嘉永七年、安政の大地震により天守閣など大半が損壊し、
御殿・太鼓櫓・蕗の門などの一部を除き、再建されることなく
明治維新を迎え、明治二年廃城となりました。その後、御殿は
様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸の跡など
一帯は公園とされてきました。掛川市民の熱意と努力が実を結び、
天守閣は平成六年に140年ぶりに木造で再建され、
ふたたび美しい姿を現しました。
-----------------(掛川城 公式サイトより)
石段をのぼり、掛川城二の丸御殿を見下ろす。

井戸があります。
これは『霧吹き井戸』と呼ばれるもの。


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【天守丸】
天正十八年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として
使われていました。一豊によって城域が拡張されると、
天守閣を配置する独立した曲輪になりました。
【霧吹き井戸】
永禄十二年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城
を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、
家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
-------------------(掛川城 案内板より)
もう中に入っちゃって良いですかね?
じゃあ行きますよー。


★その3に続く!
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