浜松市北区引佐町にある『方広寺』にやって参りました。
本来は順序通り鳥居の方から行くべきだったのですが、三重塔側
にある駐車場に車を駐めてしまった為今回はこちらから。

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五代前の菅長間宮英宗老師のころ、京都の篤志家山口玄洞氏が
寄付、建立したもの。
山口氏は大阪でラシャ問屋を営んでいて、第一次世界大戦中に
財を成したが、英宗老師の忠告で好景気のうちに商売を手びかえ、
停戦と共にあちこちで倒産者相つぐなかに独り難をまぬがれ、
その後も社業は発展したという。
そうした故事から、この三重塔は「倒産よけの塔」として、
全国の財界人がよくお参りにきている。
-----------------(方広寺 境内案内板より)
方広寺の方へ向かいましょう。

駐車場から歩いてすぐこの景色。
写真ではあまりインパクトが感じられないかもですが、
これは肉眼で見た方が凄いですよ。皆にも見てもらいたいなぁ。

遠くから本堂全体が見えてくると、おぉー!っとなる。
でっかいんですよ、このお寺。

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直虎が成長を見守った井伊直政。湖北五山の一つ、方広寺は、
直政の母(奥山因幡守朝利のむすめ)の出身である奥山家ゆかり
の寺、臨済宗方広寺派の大本山です。
南北朝時代の建徳2(1371)年に後醍醐天皇の第11皇子無文元選
禅師(御開山)が、当地を治めていた奥山六郎次郎朝藤(開基)
に土地と建物を寄進されたことによって開かれました。
直虎の曽祖父井伊直平は、渓雲寺、祖母は如意院にそれぞれ
祀られていますが、両寺はいずれも方広寺の末寺にあたります。
このように直虎と深いつながりのある方広寺は、東海屈指の有名
な寺で、境内には国指定重要文化財の釈迦三尊の他、
七尊菩薩堂や五百羅漢などがあります。
奥山家はもともと井伊家の縁戚。さらに開基から11代目の
奥山因幡守朝利は、娘たちをそれぞれ嫁がせることで井伊谷で
有力な土豪全てと結びつけました。また、徳川家康も岡崎城から
引間城に入る前に、方広寺に滞在したと史実に残っています。
https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/monogatari/nao_201608.html
--------------(出世の街 浜松 のページより)
『方広寺七尊菩薩堂』。



『勅使門』(開山堂)。

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この勅使門の奥に開山堂が建っています。開山無文元選禅師は
後醍醐天皇の皇子で延元四年(1339)に天皇が吉野で亡くなられ
るや、翌年、京都建仁寺の普光庵で剃髪、出家し
雪村友梅禅師について修行され、さらに三年後に中国に渡り、
建寧府高仰山大覚寺の古梅正友禅師のもとで七年間、
大変なご修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒)をうけ
正平五年(1350)に帰国されました。二十八歳のころであります。
開山さまはその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、
僧俗を接化され、建徳二年(1371)奥山是榮居士の請を容れて
この寺の開山となられました。開山さまの徳を慕って、
ここで修行にはげむ雲衲(修行僧)は常時五百人いたといい
(境内の五百羅漢はそれを象徴したもの)寺名を深奥山方広寺と
いうのは禅師が曾て行脚された中国の天台山に、この境地が似て
いたからといわれています。元中七年(1390)閏三月月二十二日、
当山で示寂(逝去)されました。
開山さまの御廟を黙霊塔といい、宮内庁の記録に“無文元選王廟”
と記されています。光格天皇から“大慈普應禅師” 明治天皇から
“聖鑑国師” 昭和天皇から“圓明大師” とそれぞれ勅諡されています。
現在の開山堂は昭和十年(1935)、足利紫山老師が建立した
もので、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、
雲水たちの修行の場になっています。
-----------------(方広寺 境内案内板より)
勅使門のすぐそばに本堂があります。

★その2に続く!
→ http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2129.html
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