前回のSAで食べた美味しいものの記事はこちら。
→ http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2166.html
「織田信長戦地本陣跡」は長篠設楽PA(下り)のすぐ側
…というか、目と鼻の先にあります。近いです。

「郷土の歴史 〜長篠・設楽原の合戦〜」

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天正3年(1575年)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた
武田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍
に連吾川を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千
人に対し武田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、
三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、
一部が馬防柵を突破するも時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ
討死等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。
武田軍は1万2千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍
も5千を失う激しい戦いでありました。
-------------(織田信長戦地本陣跡 案内板より)

こちらは「馬防柵」(再現)。

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1575年長篠設楽原の戦いで、武田騎馬軍団の進撃を阻止する
馬防ぎの柵で、織田・徳川連合軍は陣地の前にこの柵をめぐらし、
鉄砲隊を並べて待ち構えました。
馬防柵に押し止められた上に、3千挺の火縄銃が絶え間なく火を
噴き、武田騎馬軍の惨敗で終わりました。近代兵器鉄砲が、
伝統的な刀と馬の戦法に取って代わった決定的な瞬間でした。
-------------(織田信長戦地本陣跡 案内板より)
下の写真は案内板の写真。
正面に吉祥山、その下に見えるのは新城市…といった感じ。

そして実際に見た景色の写真がこちら。
ショボいガラケーのカメラなのでよくわからんですね。
(スマホのじゃなくてゴメンねー)

もう少しのぼってみましょう。

稲荷神社がありました。



信長公の歌碑。
「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」

歴史好きな人は是非。
ここの周りにも歴史の足跡が数多く残されています。
武将たちの足取りを追ってみるのも面白いかもですよ。
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織田信長戦地本陣跡
https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=356
住所/愛知県新城市牛倉字城山
(ナビでは長篠設楽原PA下りに設定すると良いかもです。
一般道を通る設定で行くと、下道を使って辿り着けるかと…)
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長篠の合戦の「三段撃ち」というのはどうやら後世の創作だそうで、三千挺という数も疑わしい(ただし、当時としては大量に運用したのは間違いない)そうです。
特筆すべきなのは(鉄砲の大量運用もさることながら)馬を防ぐ柵を立てたり河岸を削って急斜面を作ったりという野戦築城を行なったことだと言われています。
室町後期にも、簡単な城や要塞を急造して戦に備えることはあったようですが、野戦築城はなかったんですねえ。
それまでなかったものを使ったり作ったりするところに、才能があらわれるのでしょうね。私は頭が硬くてダメです。
いつもコメントありがとうございます♪
鉄砲3,000挺という具体的な数字は私も、流石に多過ぎね?
と思いましたがその辺はまぁ「諸説あり」でサラッと流すとしてw
現代にも当てはまりますけれども、今まで誰もやらなかった事を
ドカンとやってのける人って凄い人が多いような気がします
(それで上手くいかない人もいるけどインパクトはとてつもない)。
やはり歴史に名を残す武将は違うなぁと。
>私は頭が硬くてダメです。
GEDDYさんと同じく、私もそうかもw