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2019年07月23日 (火) | 編集 |
検索でいきなりこの記事に辿り着いた人は、その1からどうぞ。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2769.html

さてお参りをしましょう。
御本殿中央の御祭神は「五十猛命」。
左脇殿(本殿に向かって右)の御祭神は「大屋津姫命」。
右脇殿(本殿に向かって左)の御祭神は「都麻津姫命」。
※大屋津姫命と都麻津姫命は五十猛命の妹神です。

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伊太祁曽神社
http://itakiso-jinja.net
御祭神/五十猛命・大屋津姫命・都麻津姫命
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【神代から古代】
 伊太祁曽神社についての具体的な年号の初見は「続日本紀」
の文武天皇大宝2年(西暦702年)です。 神代のことはわかり
ませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、
日前神宮・国懸神宮(通称:日前宮)の社地にお祀りされていた
ようです。日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられています
ので、その頃に山東(現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、
南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。
現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、
いかにも神奈備の様相を呈しています。亥の森は旧社地として、
小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り
行われます。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に
遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年
(西暦713年)ということになります。つまり太古より祀られ
ていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、
大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の
和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。

延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・
相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い
大社であったことがわかります。
紀伊国(木国)の一ノ宮として
朝野の崇敬を受けてきました。


------------------------(↓続く)

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【中世から近世】
 新義真言宗である根来寺との関係が非常に深く、
境内南側には 「興徳院」、奥宮である丹生神社に隣接して
「傳法院」 という、いずれも真言宗寺院が神宮寺として存在
しました。(興徳院については、現在は廃寺)覚鑁上人が傳法院
を建立し、伊太祁曽神社の奥之院としたと伝えられています。
また江戸期の文書には、正月15日の卯杖祭、9月15日の例祭
に流鏑馬が行われたことなどが記されています。

【明治から現在】
 明治18年には国幣中社に列格し、大正7年には官幣中社に
昇格しています。昭和37年、昭和46年、昭和52年、
平成9年、平成24年の天皇陛下御来県の砌には畏くも幣饌料を
頂戴致しました。昭和9年の台風により社殿が甚だしく損壊
しましたが、畏くも御内帑金のご下賜により内務省直轄工事で
復興に着手し、昭和12年3月に竣工しています。 

以後、屋根の葺替工事、常磐殿の改修、ときわ山造園、
神池改修等の境内整備を経て今日の神社があります。
平成14年
(西暦2002年)は伊太祁曽神社の初見記事である
大宝2年(西暦702年)より数えて1300年にあたり、
ご鎮座1300年式年・奉幣祭を執り行い、畏くも天皇陛下より
幣帛料を頂戴致しました。 

平成21年には 「御鎮座1300年記念事業」 として、
本殿桧皮葺屋根の葺き替え工事を行いました。


--------------(伊太祁曽神社 公式サイトより)

「蛭子神社」

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 伊太祁曽神社の氏子区域内に祀られていた産土神を国の方針で
ここに合祀されました。二十二社の神社があり、
それぞれの神社名とお祀りされていた場所は掲示の通りです。

--------------(伊太祁曽神社 境内案内板より)

蛭子神社の前にある龍はこれまたチェンソー・カービングで製作
された龍神様。

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同じく蛭子神社の前にあった「霊石おさる石」

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 猿の顔に見えるところから「おさる石」と呼ばれる。
古くは参詣者が本殿参拝の時に手をあてて心氣を沈めたと
伝えられる。今日では首より上の病に霊験著しいと云う。

--------------(伊太祁曽神社 境内案内板より)

「気生神社」
御祭神/五十猛命(荒魂)

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「木の俣くぐり」
古事記での、因幡の素兎のその後の物語にあたる部分を、
ほんのちょっとココで体験する事が出来ます。
靴を脱いでこの木の俣の間を通り抜けてみましょう。

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参考として「わかやま観光情報」のページを貼っておきますね。
https://www.wakayama-kanko.or.jp/marutabi/kikinotabi/kiki/03.html
全ての話ではないですが、大穴牟遅神(大国主命)が木国
(紀伊国)へ来る前から木国を去った後のお話がほんのすこし
だけ書かれてあります。

大国主さんが出てくる物語はこれだけではありません。
面白いので皆さんには是非、じっくり古事記を読んで頂きたい。

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古事記神話実体験 木俣くぐりの神話
 神世の昔大国主神が八十神に命をねらわれた時、
母神の刺国比売は木国の大屋毘古神(当神社の御祭神で五十猛命
の別名)のところへ逃がします。木国に逃れた大国主神は
大屋毘古神の助言により木俣をくぐり難を逃れます。
この神話にもとづき「この木の俣をくぐると難を逃れることが
できる」云う信仰が生まれ、今も多くの参拝者がくぐって
行かれるようになりました。

あなたもこの木の俣をくぐり古事記の神話を実体験して
みませんか。この神話の絵本があります。
社務所へお申し出下さい。

----------------(木の俣くぐり説明文より)

「神木 梛の木」

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神木 梛の木
 梛は、マキ科の針葉樹ですが広葉樹の様な幅の広い葉が特徴
です。その葉は縦に平行脈が多数あり簡単に裂くことができます
が横方向にはなかなかちぎれません。また、他の植物の生育を
抑制する物質を分泌するとも云われてます。
 葉の丈夫さから「家内安全・夫婦円満」他の植物の育成を抑制
する力から「魔除け」の霊力があると伝えられます。その名が凪
に通じるとして船乗りの信仰も篤い樹木です。
いずれもその葉をお守りとして持つと良いと伝えられています。

--------------(伊太祁曽神社 境内案内板より)

「伊勢遥拝所」
伊勢神宮の方向を向いています。
ここをお参りすると、伊勢神宮をお参りした事になります。

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★その3に続く!
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2772.html


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テーマ:神社仏閣
ジャンル:学問・文化・芸術
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