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さて、メインの社殿へ向かいお参りを済ませましょう。
この神社の社殿の造りが他と少し違ってとても美しいんです。



岡太神社・大瀧神社
御祭神:
大瀧神社/国常立尊・伊弉諾尊
岡太神社/川上御前(岡太大神)
http://www.washinosato.jp/
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当神社は権現山の頂にある上宮(奥の院)とその麓に建つ
下宮から成っており、奥の院には大滝神社と紙祖神岡太神社の
本殿が並び建ち、下宮は両社の里宮となっている。
歴史上では岡太神社が古く、今より千五百年ほど前、この里
に紙漉きの業を伝えた女神・川上御前を紙祖の神として祀り、
「延喜式神名帳」(926)にも記載されている古社である。
一方、大瀧神社は推古天皇の御代(592〜638)大伴連大瀧
の勧請に始まり、ついで、養老三年(719)この地を訪れた
泰澄大師は、産土神である川上御前を守護神として祀り、
国常立尊・伊弉諾尊を主祭神として十一面観世音菩薩を本地
とする神仏習合の社を創建、大瀧児権現と称して別当寺大瀧寺
を建立した。
中世、児権現は白山信仰の霊場として栄え、
四十八坊の堂塔、社僧七百余名を擁し隆盛を極めたが、
織田信長の一向一揆討伐の際一山ことごとく灰燼に帰した。
しかし、その後領主となった丹羽長秀を始め歴代領主の厚い
保護によって再度復興していった。
明治になり神仏分離令によって大瀧児権現は大瀧神社と改称、
また、大正十二年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に
川上御前の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界
の総鎮守となった。
このような余の移り変りにもかかわらず里人らの両社への
信仰は篤く、神の御加護のもとに紙漉きの伝統を守り、
今日に至っている。
現在の下宮の本殿・拝殿は、天保十四年(1843)に江戸時代
後期の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、昭和五十九年
(1984)にその歴史記録の確かさと建築の美しさとから
国の重要文化財に指定され、更に平成四年(1992)に
神門回廊等が新たに造営された。
-----------(岡太神社・大瀧神社 参拝の栞より)

《社殿について》
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天保十五年(1844)に予定されていた式年大祭(御開帳)
に備えて造営されたこの社殿は、曹洞宗本山永平寺の勅使門を
作り上げた一代の名棟梁大久保勘左衛門の手になる建築である。
彼は最も美しい社殿建築を考えた。
普通の神社は拝殿と本殿はそれぞれ独立して建てられる場合が
多い。しかし彼は一間社流造り本殿の屋根を入母屋造り妻入り
の拝殿に連結して葺きおろした複合社殿を考案する。
山の峰を集めたような、あるいは幾重もの波が寄せ合うような
屋根、複雑さの中に流れがあり、重厚さの中に躍動がある。
拝殿正面の獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻さらには側面、背面の
中国の故事を題材にした丸造りの彫刻などまさしく精巧を
尽くした作品で飾られている。回廊にたってこの社殿を拝する
とき、なにか心に引き締まる感慨を覚える。
背後の大徳山(権現山)は、里人はお峯と崇め、山全体が
神体山である。山頂付近に奥の院三殿(右から岡太神社、
大瀧神社、八幡宮)があり、簡素な構成ながら江戸初期から
中期にかけての代表的な建物である。
-----------(岡太神社・大瀧神社 参拝の栞より)
お参りの後、暫くのあいだ眺めていました。



見てよこの完璧なまでの黄金比♪
この角度!この角度がとっても美しいのよ。
肉眼で見るともっと良いから皆にも見てもらいたいなぁ。

すぐ側には「神輿殿」。
先程の管理のおじさんがここを開けておりました。
美しく立派で、そして素晴らしい御神輿が収納されています。
※神社の例大祭についてはこちら。
http://www.washinosato.jp/pg201.html





「神楽殿」。

その他の境内社。


今回は時間の関係もあって下宮のみのお参りだけ。
奥の院(下宮から約1kmだそうです)へは行っていません。
【おまけ】
神社から近くの場所で撮った鳥居の写真。



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