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定食屋さんに訪れるような感覚で見て戴けたら嬉しいです。中身は趣味のネタ色々、たまに飯テロ。ヲタクなネタから神社めぐりまで。お好きな記事をブログカテゴリからお選び下さい。
2020年07月15日 (水) | 編集 |
2020.6.12 参拝
浄土宗金米山「宝台院別院」にやって参りました。
「なんでまた珍しく神社でなく寺なんかに?」
…と旦那に聞くと、少し見たい所があるのだとかなんとか。

20200612_駿河区_宝台院別院_001

浄土宗金米山 宝台院別院
https://www.houdaiin.jp/branch_temple.html
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【榊原氏ゆかりの寺】
宝台院別院は、昔は照久寺と呼ばれていました。
久能山東照宮の西側に位置するこのお寺は、かつて徳川家康公
の側近く仕え、信頼が厚かった榊原照久の菩提寺です。
元和2年(1616)4月17日、家康公が駿府城で死去されると、
2代将軍秀忠公は直ちに久能山に東照宮を造営させました。
照久は初代神主に任命され、久能山東照宮の祭主を勤めました。

-------------------(公式サイトより)

旦那:「榊原照久って人のお墓があってね…」
SERUNA:「成る程、この上にあるのがそうか」

20200612_駿河区_宝台院別院_002

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※他の一般のかたのお墓が写らないように配慮。

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【榊原氏墓群について】
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[榊原氏と久能山城]
 榊原氏ははじめ伊勢国一志郡榊原村に住したことから榊原姓
を称するようになり、康政は、徳川家康の四天王の井伊直政、
酒井忠次、本田忠勝らとともに、家康の四天王の一人といわれ
ていた。康政の兄に清政がいた。清政も家康に仕えていたが、
その才能が認められ、家康の長子信康に付属させられていた。
信康が二俣城で、自刃した後、清政は主人を失い、上州館林に
いる康政のところで閑居していた。
ところが、慶長十一年(1606)十二月、武蔵国忍で鷹狩りを
していた家康は、清政を館林から呼び出し、駿河国久能山城は
要害の地であるからこれを守るように命じた。
清政は慶長十二年久能山城に赴き、廩米5000俵を与えられた。
久能山城に入った清政は間もなく病気になったので、
家康に従っていた榊原清久(のちの照久)は、父清政の看病を
するよう命じられ、久能にむかった。清政の病が小康状態と
なったので、清久は伏見にいる家康の所に戻ったが、
父の病の急変が伝えられ、再び暇を賜って久能に戻ったが、
同年五月に清政は死去した。
清久は、父親の死によって久能山城の城番が不在となるので、
新しい城番が決定すればただちに伏見に参上する旨を申し出た
が、父の後を継いで久能城の城番に当たるよう命ぜられた。

-----------------------(↓続く)

20200612_駿河区_宝台院別院_006

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[従二位という高位に昇進]
 駿府に隠退した家康は、駿府城周辺で鷹狩りをした時に、
自ら清久の所領を定め有度郡内で1800石の采地を与えた。
その後、大坂夏・冬の陣に際し、清久は供奉しようと懇願した
けれども、久能山城は枢要の地であるので守衛に当たれという
厳令をうけ、久能山城を守っていた。家康の死後、その霊柩は
家康の遺言で久能山におさめることになった。この時榊原清久
は、祭祀のことを家康の遺言で掌るという光栄に浴していた。
これは清久の平生の奉仕を怠らなかったためであるという。
二代将軍秀忠は久能に詣でた時、榊原の邸に立ち寄り、数ある
家康の近臣の中からあえて清久を選び、東照神君の意のある所
を忘れず、今後ともけっして疎略なきよう命じた。元和三年
(1617)南光坊天海の葬地に関する巻き返しによって、
東照宮の霊枢は日光に遷された。この時清久もこれに従って
奉仕をした。
日光から帰途、伊豆北条の館で昼寝をしていたところ、
東照宮のお告げがあり、名を清久から照久に改めた。
元和四年五月十三日には従五位下に叙せられ内記と称すること
が許され、ついで同年六月には従四位下に昇進させられた。
昇進につぐ昇進をつづける照久は、元和八年(1622)六月
従二位に昇進した。
照久は同年八月上洛して昇殿が許され、これが済むと久能に
戻り、正保三年(1623)久能で卒し、照久自らが創建した
久能の照久寺(現宝台院別院)を葬地とした。

-----------------------(↓続く)

20200612_駿河区_宝台院別院_007

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[榊原氏は交代寄合]
 照久の後を継いだのは照清であった。
照清は元和九年(1623)徳川秀忠・家光が上洛に際し久能に
詣たとき、はじめて御目見をした。さらに寛永十一年(1634)
には家光が将軍として上洛の途中久能山に参詣したが、この時
照清は伽役を命ぜられていたが、無官であったため従五位下に
叙任された。正保三年照久の遺跡を継いだが、あわせて東照宮
の祭主と久能山の警衛の二つを兼帯することとなった。
そのため、承応三年(1654)には与力六騎・同心三十人が
預けられたが、祭主と警衛の兼帯は負担であったらしく、
祭主を解任して欲しいとしばしば陳情していた。結局、
寛文四年(1664)五月に祭主は解任され、警衛をもっぱらと
するようになった。『家譜』には、「のち代々久能に住し、
これをつとむ」とる。江戸城に出仕したときは定鑑間に席が
定められていた。元禄十四年(1701)七月、照清が隠居すると
照清の孫喬長が後を継いだ。同年九月十四日には「はじめて
采地にゆくのいとまをたまふ。のち代々例とす」(『家譜』)
とあるように、榊原家が采地久能に住することになったのは、
久能山の警衛という職務からであろう。
以後、榊原家は交代寄合の旗本として大名に準じた扱いを
うけながら、久能に住しつづけるのであった。

----------------(榊原氏墓群 案内板より)

20200612_駿河区_宝台院別院_008

旦那:「…と、こういう人なんだよ」
SERUNA:「はえー」

お寺に来て歴史上の人物の墓参りに来てみたら、
久能山東照宮に関係があり、祭主だった人の墓に出会った。

旦那がtwitterに上げたもっと綺麗な写真はこちら。
https://mobile.twitter.com/tenta_mituike/status/1271361137070620672

おまけで過去ログをリンク;
家康公の長男信康が自刃した地「二俣城趾」の記事はこちら。
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2084.html
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-2085.html

もう一つ久能山東照宮についての記事を貼ろうと思ったら、
このブログを開設する以前の某SNSで書いていて
ココではひとつも書いていませんでした。
またいつか触れてみよう。

★その2に続く!
http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-3308.html


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テーマ:静岡県
ジャンル:地域情報
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