焼津市鰯ヶ島にある「明治石造防潮堤」です。
この防潮堤は当時この場所に実際にあったものではなく、
当時の石材を使用し再現されたものです。確か昔見た防潮堤は
こんな表面滑らかで綺麗な色ではなくもう少しゴツゴツとして
黒っぽかったような気がしたのですが…

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明治石造防潮堤
今から約百前までの焼津の海岸は、大粒の砂利に占められた
海岸が続いており、海岸沿いには簡易な杭木工事による波除け
の堤しかなく、暴風雨の荒波による災害が度重なり、
民家や船の被害は甚大でした。
このため、村々では堅固な波除け防潮堤(堤防)を設置する
ために堤防委員を決めて県への陳情を繰り返しました。
中でも防潮建設実現に向けて奔走した山口平右衛門翁の功績は
忘れることができません。
その結果、明治32年から40年までに、高さ7〜8メートル、
基底部幅6〜6.5メートル、上部幅3.5メートル、総延長1,048
メートルの石造りの大堤防が建設されました。
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こうして百年の長い間、焼津の町と人々を守り続けた堤防
ですが、構造上耐震性が危惧されたため、明治の石造り堤防の
海側に、昭和62年から平成7年にかけて新堤防が築かれました。
新堤防の外側には新焼津漁港が埋立造成され、さらにその
沖合には幅20メートル、長さ2,000メートルの防波堤が築かれ
ました。このことにより、焼津の海岸部はこれまでと比べもの
にならないほど安全になり、平成12年、明治の石造り堤防は
その役割を終え撤去されました。
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撤去に先立ち、旧堤防の映像や写真、図面による記録保存
調査を実施し、その資料は歴史民俗資料館に保存してあります。
ここに伝える記念碑は、焼津の町と人々を長い間守ってきた
明治の石造り堤防を後世に伝えるため、使用されていた石材を
利用して明治の石造り堤防を模式的に再現したものです。上部
には旧堤防にあった昭和天皇行幸記念碑を移築してあります。
-------------(明治石造り防潮堤 案内板より)
↓最初の写真の位置より逆側から見たところ。

↓石造り防潮堤の側面とオーシャンロード。

防潮堤の上からアクアスやいづ方面を撮影。
綺麗な青空ですね。

説明文にあった「昭和天皇行幸記念碑」。
写真のむこうに見える広場は青峰公園です。子供の頃、
夏に友達と「青峰プール」へ行った帰りによく遊びました。
いまはもう無いですが、昔は公園の辺りに駄菓子屋さんが
あっておでんを食べた思い出。

【おまけ】
明治石造防潮堤すぐそばにある「南御旅所」。
焼津神社の荒祭りの時には、巡幸していく御神輿がここで一旦
置かれた後に神事が行われます。


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私が子供の頃に遊んだところはほとんど無くなっています。
よく遊んでいた近所の河原が、もう堤防の下に消えてしまっていますし、学校に通っていた砂利道が舗装されて味気の無い道になっています。
何十年も前のことですから、それがそのまま残っている方が怖いですけどね。
”歴史のあしあと”として残された防潮堤は幸せ者です。
いつもコメントありがとうございます♪
いつまでも変わらずあり続けるのは「そこに思い入れのある人」にとっては嬉しい事ですが、歴史的建造物ではなくずっと残す訳にもいかないような場所や物ですと、無くなってしまったりするのは仕方の無い事かもですね。
仏教用語になってしまいますがこれが「諸行無常」というやつでしょうか。
>”歴史のあしあと”として残された防潮堤は幸せ者です。
そのままの堤防ではないですが、再現したものであっても町の歴史を残してくれた焼津市には「ありがとう」と言いたいです。