芦田愛菜ちゃんの「信じる」についての持論が素晴らしい件。
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「その人の事を信じようと思います」っていう言葉って
結構使うと思うんですけど「それがどういう意味なんだろう」
って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、
“自分が理想とするその人の人物像”みたいなものに期待して
しまっていることなのかなと感じて。
だからこそ人は「裏切られた」とか「期待していたのに」
とか言うけれど、別にそれはその人が裏切ったとかいうワケ
では無くて、“その人の見えなかった部分が見えただけ”
であって、その見えなかった部分が見えた時に…
「それもその人なんだ」と受け止められる揺るがない自分が
いるというのが信じられる事なのかなって思ったんですけど。
でもその“揺るがない自分の軸”を持つのは凄く難しいじゃ
ないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、
不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、
理想の人物像だったりに縋りたいんじゃないかと思いました。
----------------------(動画より)
愛菜ちゃん、16歳の時にこの発言ですよ?
かなり哲学的な内容で驚きましたがこの子よりもずっと年上の
大人ですらココまで考えられる人は少ないんじゃないかな。
今日まで人から裏切られる事ばかりで、基本的に人間があまり
信じられない私ですが、この考えに到達するまで一体人生何周
すればいいんでしょうかね。なかなか出来ないですよ。
【小さく呟き】
私の「信じる」について:
人は裏切るもの。自分が信じられるものは自分だけ。
子供の頃から「自分は自分にしか救えない」と思っているので
その自分が信じられなくなった時は、そこで人生終了。
ブログに訪問ありがとう。
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私は基本的に人は裏切るもの(多様性があり、流動的なもの)と思っていますので、ある人を信じるとか思ったり言ったりした事は無いし、そう言わざる負えない状況になった時は期待として言っていた気がします。愛菜ちゃんの言ってることですね。
罰が当たるかもしれませんが、神や仏に祈るとき自分の期待が成就するように祈ることがありますが、それは願いの実現というよりそうする事で気持ちが楽になる、信じる者は救われるからじゃないでしょうか。
>“揺るがない自分の軸”を持つのは凄く難しい
この歳になって自分自身でさえブレたりします。人にそれを求めるのは筋違いかもしれません。
それにしても愛菜ちゃんは凄いですね。
今夜、NHKで愛菜ちゃん主演のドラマがあるようなので見てみよう。
いつもコメントありがとうございます♪
tomabiさんも愛菜ちゃんと同じ領域に居らっしゃいますね。
>そうする事で気持ちが楽になる、
>信じる者は救われるから
なんかしっくりきました。
神仏を信じる私ですが、自分は神社でお参りする時はまず他者が幸せになる事だけを願いますが、それでも自分自身の願望を神様に願う場合にどこか神様に対してほんの少し期待をしてしまうんですよね(人間如きが神様に対して…と思われそう)。
必ずしも神様は完璧に願いを叶えてくれるというわけではないのですが、tomabiさんが仰る通り「信じる」ことで気持ちがほんの少しでも軽くなっているのかも知れません。神仏さえ信じられなくなってしまった時は、本当の絶望が訪れた時かも?そうならない事を祈るしか無いですね。
ところで「私の事、本当に信じてくれていいから」と真顔で言う人ほど信じられないのは何故だろうと、ふと思ってしまいましたw