「善光寺」にやって参りました。
牛に引かれてはいませんが善光寺詣りです。


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御開帳
七年に一度、絶対秘仏である御本尊様のお身代わりとして、
まったく同じお姿の『前立本尊』様を本堂にお遷しして全国の
人々にお参りいただく盛儀です。現在の本堂建立(1707年)
の際、松代藩が普請奉行にあたったというご縁から、
毎回市内の松代町から『回向柱(えこうばしら)』が寄進され、
本堂前に立てられます。回向柱は、『前立本尊』の右手の中指
と“善の綱”で結ばれ、柱に触れる人々に“御仏”のお慈悲を
伝えてくれます。
----------------(善光寺公式サイトより)

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史跡 善光寺参道(敷石) 平成九年四月一日指定
善光寺参道(敷石)は、宝永四年(1707)本堂が仲見世堂
跡地蔵尊付近から現在地に移転陵エの後、七年目にあたる
正徳四年(1714)に完成した。
本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀を
きたしていたため、正徳三年、本堂前の敷石が腰村(西長野)
西光寺住職単求の寄進により敷設、続いて境内入口の二天門跡
から山門下までの218間(97メートル)が江戸中橋上積町
(現日本橋三丁目)の石屋香注(大竹屋平兵衛)の寄進により
敷設された。(墓碑銘・大勧進日記)
-----------------------(↓続く)

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伝説によると、平兵衛は、伊勢出身で江戸で財をなしたが、
長男が放蕩で家へ寄り付かなかった。ある夜、盗賊が入った
ので、突き殺すと、それが我が子であったという。平兵衛は
世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺
にきて、諸人の難儀を救うため敷石を寄付した。
平兵衛は後に茂菅静松寺で出家し、享保十一年(1726)に
没した。平兵衛の墓は、静松寺と普光寺 境内に今も残って
いる。その後も平兵衛の子孫は、敷石の修理をしていたという。
敷石は、山門上が幅四間、山門下から二天門跡までが幅三間
で、長方形の石が規則正しく敷かれている。西長野郷路山産の
安山岩製で総数7777枚といいならわされているが、
現在およそ七千枚が敷設されている。一部補修をうけているが、
大部分は当初のままで、これほどの規模を持つ近世以前の敷石
の参道は、全国的にも稀である。
------------------(善光寺 案内板より)
参道を歩いているとこんな施設が。
「兄部坊」…善光寺の宿坊だそうな。


同じく善光寺宿坊「白蓮坊」にはこんな絵馬があって、
ちょっと可愛かったので撮影してきました。
「むじな地蔵」なるものがあったけど、地蔵のデザインが
個人的に大嫌いなせんとくんと同じ奴が作ったっぽいので
なんかムカつくし、そいつだけ写さなかったです。
(可愛いタヌキと猫ちゃんワンちゃんの絵馬だけ撮影)


【仁王門】
参拝者を迎え入れる最初の門。
初めの仁王門は宝暦二年(1752)に建立されたそうですが、
大地震により二度焼失しているとか。現在の門は大正時代に
再建されたものとありました。




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現在の仁王門は、当県山形村の永田兵太郎をはじめとする
全国信徒の篤志により、大正七年(1918年)に再建され
ました。間口約十三メートル、奥行約七メートル、
高さ約十四メートル、屋根は銅瓦葺です。
仁王像および背面の三宝大黒天像は、近代彫刻の巨匠
高村光雲と米原雲海の合作です。「定額山」の額は伏見宮貞愛
親王の御筆によるものです。
------------------(善光寺 案内板より)
仁王像…この時は上手に撮れませんでした。
もう少し綺麗に撮影出来た物をあとでアップする予定。
スマホじゃ無いからうまくいかないモンだね。


【旧如来堂跡地蔵尊】


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旧如来堂跡地蔵尊
善光寺本堂は、古くは「如来堂」と呼ばれ、
皇極天皇元年(642年)の創建から元禄十三年(1700年)
までの間はこの場所にありました。この地蔵尊は、旧本堂内の
瑠璃壇(ご本尊・善光寺如来さまをご安置した壇)の位置に
建てられています。
------------------(善光寺 案内板より)
★その2に続く。
→http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-4062.html
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