「尾山神社」にやって参りました。
ここは前田利家公がお祀りされる神社です。
金沢に来たのですからご挨拶詣りを…


【神門】
国指定重要文化財。
神社の神門はその造りからして珍しいのですが、
ステンドグラスになっていたりでとても美しいです。



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尾山神社神門
尾山神社は、加賀藩祖前田利家を祀る神社として明治六年
(1873)に創建され、神門はその正門として明治八年(1875)
に建築されました。
当時前例のない和漢洋折衷のこの神門は、強いて伝統を踏襲
せず、堅固をめざした、と言われます。
初層の三連アーチの骨組みは、日本建築の技法で組まれた
完全な木造で、外側の石積みには加賀藩を象徴する戸室石が
用いられています。三層目には四方に四色のギヤマンが
嵌められ、かつてはここに灯をともして金石近海を通る船に
灯台の役目をしていました。
屋根頂部の避雷針は、現存する日本最古のものとされています。
---------------(尾山神社 境内案内板より)
二層目に続く階段でしょうか?(※立ち入り禁止)

神門をくぐると目の前に現れる景色。
優しく迎えて下さっているような空気感です。

【導水管】

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神苑にひかれた導水管
三代藩主利常公の頃(1632年)犀川上流から金沢城へ導水
した辰巳用水が完成しました。それを機にその一部を分岐して
金谷御殿(現在の尾山神社)にもサイフォンの原理を応用し,
巧妙な仕組みで兼六園の水を引水し,響音瀑とよばれる滝を
つくりました。 当初水路は木管でつくられていましたが、
天保十五年(1844年)に庄川上流の金谷石で調整した石の
導水管に取り替えられました。 昭和にはいり道路整備等で水路は断たれましたが,近年発見
された当時の石管は、長さ1メートル前後・39センチ角の石
に径18センチのパイプ状に穴を開けた両端にホゾがつけられ、
重さは約150キロあります。これを兼六園より暗渠でつなぎ、
継ぎ目は樹脂で固め漏水を防いだものであります。
---------------(尾山神社 境内案内板より)
さて、お参りしましょう。

尾山神社
http://www.oyama-jinja.or.jp/
御祭神/前田利家公・芳春院(お松の方)
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尾山神社の歴史
慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、
二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。
しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。
徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。
利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切る
ことができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉
神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、
利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。
むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。
利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神として
いました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
-----------------------(↓続く)

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加賀藩祖前田利家公と正室お松の方を祀る
さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、
利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地
である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、
郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち
明治35年には別格官幣社に列せられました。
また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
廃藩後、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽では
なかったはずです。それにしては、素晴らしい雄大な社殿を
造営したものと感嘆いたします。これもひとえに、
利家公の神威の然らしめるところ、前田家三百年の仁政が
あればこそです。利家公を敬慕し、仁政に浴した士民が、
こぞって忠誠と感謝のまごころを捧げてきた結果でしょう。
戦後は神社社格制度が廃止され、現在は神社本庁の別表神社に
なっています。今では金沢市の総社的神社として崇敬されるに
いたり、市民の心の故郷として親しまれています。
---------------(尾山神社 公式サイトより)
【蚊母の樹】

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蚊母の樹 別称 ヒョンノキ マンサク科の常緑喬木。
高さ約二十メートルにも達し樹皮は灰白色葉は楕円形で互生し、
質が厚く先は鈍く緑には鋸歯がない。
毎年四月頃葉のつけ根から総状花序をだし花は紅色で上方に
両性花、下方には雄花をつけ萼片は三〜六個、花弁はない。
果実は木質で葉は大きな袋状の虫瘤を生ずることが多い。
材は櫛・床柱・机・火鉢等に用いる。
日本では主に西日本で自生し観賞用としても親しまれる。
此の木は当神社に於いて樹齢200有余年を数え、
この地方では非常に珍しい樹木である。
---------------(尾山神社 境内案内板より)
【前田利家公の像】


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母衣「ほろ」について
流れ矢を防ぐために、鎧の背にかけた布のことを言います。
その後時代の推移により、風にふくらんだ形を示すために、
竹串、鯨の骨類、ひげ等を骨組みに入れるようになり、
これを母衣と呼びました。
戦国時代(西暦1560年頃)に騎馬武者は、これを背に戦場を
駆け巡り、連絡の役をつとめました。このような騎馬武者を
母衣衆と呼びました。
織田軍団の母衣衆は、佐々成政を筆頭とした十人の黒母衣衆と、
前田利家を筆頭に九人の赤母衣衆とで合計十九人でした。
そして、戦闘となれば、諸隊のガイド的役割もあり、
敵にとって目に付きやすく、大変危険でもありました
---------------(尾山神社 境内案内板より)
【菊桜】
拝殿の真横にあった菊桜。

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尾山神社 菊桜の由来
兼六園内の千歳橋付近にあった桜は、もと「御所桜」と
いわれ、江戸時代後期に京都御所から前田家に下賜されたと
伝えられ、昭和三年に国の天然記念物に指定されました。
この菊桜は兼六園一というより日本一の兼六園菊桜です。
天然記念物の兼六園菊桜は、昭和四十五年枯死しましたが、
昭和十年頃の積雪により折れた枝を、当時兼六園園長であった
田中大三郎さんが、涌波町の田上清勝さんに接ぎ木を依頼し、
これが成功しました。そして育てられた菊桜の枝を、
友人である笠舞町の西野安松さんが山桜に接ぎ木し、
昭和五十九年秋に私が西野さんから譲り受け大切に育てて
きました。
-----------------------(↓続く)

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名木を守り継いで七十年、下賜された前田家に返すために、
加賀藩藩主前田利家公を始め,歴代藩主公を奉斉するこの
尾山神社に,宮司の許可を得て二本の菊桜を寄進することと
なりました。この菊桜は,三百枚を優に越える花弁を付ける
のが一番の特徴です。二つ目の特徴は,開花から落花までの
間に,花の色を三回変える事です。初めは深紅,咲き始めると
薄紅となり,落花のときは白く変り,最後は花弁が散るのでは
なく,柄を付けたまま落花します。 花期は,四月二十日頃に蕾が膨らみ始め,月末に満開となり,
五月中旬まで残花が見られます。
平成十五年二月二十七日 献木者 池内 信彦
---------------(尾山神社 境内案内板より)
★その2に続く。
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