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【藩祖 利家公夫人の墓】
前田利家公の正室、まつのお墓です。
前田利家公とまつといえば、戦国のおしどり夫婦。
まつが利家公に嫁いだのは12歳の頃(利家公は22歳)で、
2男9女(計11人)の子供がいたというのはよく知られる話。


利家公のお墓と同様にこんもりとしています。

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藩祖 利家公夫人の墓
芳春院。名は松、または昌。
天文十六年(1547)尾張国海東郡沖の島に生まれる。
同十九年利家公の邸に入り、後にその正室となる。
当時利家公は尾張国荒子城主であった。
利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の大守に出世したが、
その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。
関ヶ原合戦の後(利家公の没した翌年)
徳川方と加賀藩との融和のために進んで人質となって
江戸へ送られたのである。
慶長十九年(1614)までの十五年間の長い間、加賀藩のため
に忍従の月日を過ごされたのである。
元和三年(16.7)金沢で没した、享年七十一歳。
---------------------(案内板より)
前田利家公とまつの墓を背後から見たところ。
【前田利家公の墓】(背後から)

間を挟んで…

【まつの墓】(背後から)

【第二代目藩主 前田利長公の墓】


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第二代目藩主 前田利長公の墓
端龍院。初代前田利家公の嫡男として永禄五年(1562)
尾張国荒子に生まる。母は芳春院。幼名利勝、後に利長と
改めた。利家公と共に戦国歴戦の武将である。
慶長三年(1598)二代藩主となったが、同四年には、
利家公が逝去され、翌五年には関ヶ原の合戦が起きるなど
徳川方と大阪方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田氏の
去就は天下の注目を集め利長公の心労は並々ならぬものが
あったのである。
利長公の在位はわずか七年であるが、金沢城の修築に
キリシタン大名として有名な高山右近を用い百間堀の石垣
などを作らせた。
慶長十年(1605)に弟利常に藩主の座を譲り、
自らは富山城に住まわれた。慶長十四年(1609)には
居城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に
城を築き移り住んだ。この間に高岡の開発に努め、
今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。
慶長十九年(1614)高岡城で苦難の多かった生涯を
閉じた。享年五十三才。
高岡の名刹 瑞龍寺は公の菩提所である。
---------------------(案内板より)
【第二代藩主 利長公夫人の墓】


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第二代藩主 利長公夫人の墓
玉泉院。名は永、
天正二年(1574)織田信長の四女として生まれる。
天正九年(1581)越前府中(福井県武生市)に入輿した。
豊臣秀吉の側室淀君、二代将軍徳川秀忠の夫人崇徳院とは
従姉妹である。
利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、
元和九年(1623)二月に没した。享年五十才。
金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、
樹木・泉石を配し路地が造られ庭園とした。
---------------------(案内板より)
全部まわるつもりで来たのですが、前田利家公とまつの墓を
お参りしたあとに旦那は「車で待ってる」と先に引き返し、
私はこの時ぼっち行動。周りの景色もこの様子。

広いしどこまで行けるかわからない。
というか全部ってどの位時間がかかるの?と不安いっぱい。
前田家の墓所を一人きりで歩く。

下の写真は12代斉広の墓所そばにある長い石段。
これを見て、更に不安が襲ってきたのでここで引き返す。
全部まわるのは諦めることにした。

クマさんも出没するようなので。
(「単独行動は避けましょう」の言葉は流石にドキッとする)
雑草生い茂る道でクマさんには出会いたくない。

前田家の墓所、もしも時間に余裕のあるかたは
全てお参りをしてみては如何でしょう。
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