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2022年08月01日 (月) | 編集 |
7年前に神社と城跡に訪れた時の記事。
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何で恋の宮なのかは過去ログを参考にどうぞ。

2022.5.15 参拝 
「金崎宮」にやって参りました。
下の写真、階段の右手側に見える鳥居は「愛宕神社」です。

20220515_金崎宮_001

20220515_金崎宮_002

越前若狭五大名城をアピールする幟。

20220515_金崎宮_003

この鳥居をくぐればすぐですよ。

20220515_金崎宮_004

金崎神社は、境内地の大部分が金ヶ崎城の旧跡。
城跡についての案内板から、説明文を転載しておきます。

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金ヶ崎城跡(昭和九年三月十三日 国の史跡に指定)
 金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、
三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、
この城が天然の要害の地であったことがわかる。
 南北朝時代の延元元年(1336)十月、後醍醐天皇の命
を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時
気比氏治の居城であったここ金ヶ崎に入城、約半年間
足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、
恒良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が
亡くなったと伝えられる。


----------------------(続く↓)

20220515_金崎宮_005

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 戦国時代の元亀元年(1570年)四月には、織田信長が
朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎
(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし
越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井氏が朝倉氏に味方
するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ
窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり)
を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事
帰京できたと伝えられる。またこの殿での危機を救ったのは
家康で、後の天正十四年(1586)家康上洛にあたり、
秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。
すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉
からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな
影響を与えたといえる。
 現在は、三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の
面影を偲ばせる。また、最高地(86メートル)を月見御殿
といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の
平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく
天候がよければ越前海岸まで望むことが出来る。

 中腹には、金崎宮が創建されていて毎年境内の桜が咲く
ころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にも大変珍しい
「花換祭」が開催されている。

-----------------(金崎宮 案内板より)

五名城の印をコンプリートすると、
特別御城印を貰えるそうなので、興味のあるかたは是非。
どうでもいいけど、この神社の萌えキャラ凄く可愛い。

20220515_金崎宮_006

【手水舎】
20220515_金崎宮_007

お参りをしましょう。

20220515_金崎宮_008

金崎宮 
http://kanegasakigu.jp/
本宮御祭神/尊良親王(後醍醐天皇第一皇子)
      恒良親王(後醍醐天皇皇太子)
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 當営は敦賀市の市街地の東北に位置し中社の社格である。
この金崎山は気比大宮司氏治の居城でもあり延元二年(1337)
三月六日落城す。その時城中に在られた尊良親王は自刃され、
義顕氏治らの将兵 三百余人も殉じ果てた。皇太子恒良親王は
逃れら れるも後に幽閉され 翌年京都にて他界される。
 金崎城落城後556年を経て明治二十六年 (1893)
敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王、恒良親王を
祭神に社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である。

 又落城の時、殉難した将士を祀る絹掛神社は、これら将士
の子孫が有志を募り手続きを経て明治 三十年(1897)創立
認可を受けて設立されたお社である。
 この金崎城趾は昭和九年(1934)史蹟として、文部省より
指定を受け、月見御殿の旧趾、焼米出土、地経塚のあと、
木戸堀切の旧趾などあり由緒の地である。


-----------------(金崎宮 案内板より)

20220515_金崎宮_009

【朝倉神社】
20220515_金崎宮_010

…の横に掲示してあった歴史の説明。

20220515_金崎宮_011

20220515_金崎宮_012

【絹掛神社】(摂社)
20220515_金崎宮_013

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摂社 絹掛神社 
 延元二年(1337)三月六日金ヶ崎城の落城の際、尊良親王
に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刀した。
祭神はその人達である。氏名の判名する者僅かに十数名、
大半の人は近畿、中国四国地方の出身であり、
敦賀を中心とする北陸地方からの無名戦士も少なくはない。
籠城五ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向った
壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。


-----------------(金崎宮 案内板より)

★金ヶ崎城跡に続く。
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