記事が前後して申し訳ありません。
ゴールデンカムイ展を見る前にお参りしてきました。
京都の「神田明神」は狭い路地の小さな一角にあります。


朝早かったので玄関は開いていなかった。
ガラスにカメラのレンズをピッタリ付けて中を撮影。
玄関の外側からお参りをしました。

屋根の上にあったもの。
ズームして撮ったはいいがピンボケた。

京都神田明神
https://www.kandamyoujin.or.jp/event/detail/?id=29
御祭神/平将門命・大己貴命・少彦名命
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平将門公は桓武天皇五代の後裔で、
東国において武士の先駆者 「兵(つわもの)」として
名を馳せた人物です。この地は天慶の乱に敗れた
将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。
古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、このたび
将門公を祀る東京の神田l明神よりご祭神をお迎えしました。
皇居のほとり、大手町の「将門塚」は、京の都で晒された
首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として、
今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、
弱きを助くる」精神を慕い、参拝が絶えません。
(中略)
尚、この土地・建物は、故・神田神社責任役員氏子総代
遠藤遠蔵氏のご遺志を継ぎ、娘の平野憲子様により寄贈
されたものです。
--------------------(案内板より)
※長いので略しました。
「膏薬辻子」
“こうやくのずし”と読みます。
京都神田明神の前にある細い道。

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膏薬辻子(こうやくのずし)とは、四条通から中ほどで
折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。
また、膏薬辻子を挟む地域が、明治二年(1869年)に
新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられ
ていた。この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任
の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺
(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が、天慶元年
(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。
天慶三年(940年)に、天慶の乱により戦死した平将門の
首が京都の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、
平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮める
ために首塚が築かれた。京都でも、空也上人が、道場の一角に
塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の
道場と呼ばれた。そして、空也供養の発音が訛り、細い道を
意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになった
とされている。
--------------------(案内板より)
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