天狗党に関連する『松原神社』のお話からどうぞ。
→ http://ajiteiseruna.blog.fc2.com/blog-entry-740.html
彼らが幽閉された鰊倉の写真もありますよ。
2015.4.12参拝
松原神社を参拝した後は、すぐ近くにある『武田耕雲斎等墓』に。
日本の行く末を想い、散っていった者たちが眠る墓があります。
これから松原神社へ参拝に行かれる方はこちらにも是非、
ほんのちょっと時間を作って、お参りをしていって欲しいです。
お墓へ向かう途中、松原公民館の横に『水戸烈士追悼碑』。
周りの木は茨城県の人たちが植樹したものらしい。

追悼碑から更に真っ直ぐ行くと墓地の入り口が見えてきます。

武田耕雲斎等墓
http://www.turuga.org/places/takeda/takeda.html
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元治元年十月 水戸藩士武田耕雲斎の党は尊攘の大義を唱え
西上の途次越前に入り 十二月敦賀郡新保宿にて大雪に遭い
幕府の軍門に下れり 翌年二月幕府は耕雲斎以下三百五十三名を
斬首せり。今此の墓地は当時の当時の刑場にして遺骸を埋めて
土盛り、方十二間高さ八尺西面して十三基の墓が建てられている。
昭和九年十二月二十八日文部省より著名なる人物の墓として
二百五十六坪の地域を史蹟に指定され 現状の変更 樹木の伐採は
出来ない様保護されている。
---------------------(境内案内板より)
すみません、写真は遠景のみで勘弁して下さい。
お墓を写真に収めるとか気分的にあまり良いものでは無いので。
刑死 三百五十三名の墓:十三基
病死 三十一名の墓:一基
討死 二十一名の墓:一基

石段の下にボタンが設置されているのですが…
これをポチッと押すとスピーカーから説明が流れてきます。
音声ガイドは、町を走る竿竹屋さんくらいボリュームが大きいので
日常的にこの説明を聞いているここらの人は、恐らく全文を記憶
してしまっているのではないかなーと思っちゃったのは秘密だw
この墓地の裏手に来迎寺があります。
当時ここは罪人の処刑場。来迎寺境内に五ヶ所大きく穴を掘り、
捕えられた天狗党の人たちは次々に斬首され、穴の中に埋められて
いきました。
音声ガイド:「……それがまさにこの場所なのです」
SERUNA・旦那:「うおぉぉぉ!」((((;゚Д゚)))))))
土が盛ってある場所を目の前にしながらガイドを聞いていると、
よりリアルに感じられる。想像力が豊かなので、パッとその光景が
頭の中に浮かんできて震える。ただでさえ一日あたり、物凄い数の
人間が斬首で処刑されている凄惨な現場ですよ。
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武田耕雲斎等の刑死
死刑日と人数 元治元年(1865年)二月四日 始
第一回処刑 元治元年二月四日
武田耕雲斎 以下 二十五人
第二回処刑 同年二月十五日
秋山又三郎正元 以下 百三十四人
第三回処刑 同年二月十六日
濱埜松次郎忠正 以下 百三人
第四回処刑 同年二月十九日
綿引誠一郎忠保 以下七十五人
第五回処刑 同年二月二十三日
朝倉三四郎景敏 以下十六人
合計 三百五十三人
---------------------(境内案内板より)
その後、天狗党に連なる一族も男女の区別関係なく、
悉く処刑されたそうです。武田耕雲斎の妻に至っては夫の首を
無理やり抱かされ処刑されているとか何とか。惨い…(;ω;`)
【武田耕雲斎 辞世の句】
討つもはた 討たれるもはた 哀れなり
同じ日本の 乱れとおもえば
ふと思い出した事ですが…
そういえば「天狗党」なんて、今思い起こしてみると、学生時代に
詳しく授業で教えてくれる教師はひとりもいなかったなーと。
どういうワケかただ単に「天狗党という集団がいた」くらいにしか
教えてもらえなかったような。みんな、どの世代もそうかな?
日本の歴史の中でこういった人たちが存在していた事を、
頭の片隅にでもいいから置いといて欲しいです。(記事:SERUNA)
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