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神社裏手の鳥居の側にも講碑群があります。

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麻布山三元講 講碑群
江戸・麻布の町に栄えた山三元講は、江戸期の享和三年(1803)
山口左門が山吉講から分離独立させた富士講である。
富士登拝には吉田口(北口)から登り、須走口(東口)へと
下山し、須走を定宿とした。神門前の火山岩によって築かれた塚
と一対の狛犬は昭和の初頭に山三元講の人々が築造し、
奉納したものである。このように近年まで講と当社・須走との
関わりは深い。同じ頃麻布永坂には富士塚か造られ頂上には当社
より勧請された浅間社が祀られた。この富士塚は自然の傾斜地を
利用して造られ、頂上部は富士山のクロボク(火山石)によって
築かれている、浅間社の周囲には記念碑が次々と移され、
また新たに造られた。
この永坂富士塚も講の解散と共に解体され、昭和六十二年、
大半の記念碑がこの地に移設された。これら講碑群は往時、
栄えた講の姿を今に伝えている。
※永坂富士塚の模型は当社、記念資料館に展示されている。
-------(富士山東口本宮 冨士浅間神社 境内案内板より)
地味ですがこちらにも注目してみよう。
東口本宮の脇の道に『鎌倉往還』と呼ばれる道が通っています。
細い道が一本あるのですが、写真を撮り忘れ。orz
まず案内板のイラストをアップ。

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鎌倉往還
鎌倉往還は、かつては鎌倉道などと呼ばれ、
幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。
由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに
至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。
鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に
「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人
らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。
当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な
目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、
地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられたこと
が明らかにされています
かつての鎌倉往還は、廃道となっていたり、拡幅されたり
付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから
正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま
現在に至り、当時のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部
に残存しています。
当時の鎌倉往還は、まっすぐに籠坂峠・御坂峠を越え、
甲州源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。
このように小山町須走は、古くから富士北麓地域と駿東部を
結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。
-------(富士山東口本宮 冨士浅間神社 境内案内板より)
上のイラストと似たようなアングルで、写真を撮ってみました。
7月に参拝した時のものなので、雪は積もっていませんが、
目の前に富士山が見えます。

皆さんも東口本宮冨士浅間神社へ、
是非、お参りをしてみては如何でしょう。( ´ ∀`)ノ
【余談です】
7月、頭の悪い左巻きの議員さんが、虎の威を借る狐のように
東口本宮の目の前で、神社の意とは反する思想と考えを振り撒き
演説を行っていったそうで、神社側はとても迷惑したらしい。
https://mobile.twitter.com/fujisengenjinja/status/617191581884395520
こういった許可のない迷惑行為はここだけに留まらず、
他の神社でも左翼の議員が、同様の事をやらかしている模様。
本当にブサヨはクソしかいませんな。
もしも、九条がどうとか戦争がどうとか、
おかしな演説をやらかしてる「オヒダリさん」を見かけたら、
即刻社務所に通報して、あとは神社の人にお任せしましょう。
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